「ようこそ、望まれぬ寵愛者よ。私だけはお前を歓迎してやろう。印のもたらし手としてな」
ひんやりとした室内にタナッセの憎らしい声が響く。レハトの傍らに立つ男はいつものように小馬鹿にした笑みをその顔に浮かべている。
「……はじめからわかっていたことだが、ここまで性根が腐っていたとはな」
吐き捨てるように口にした言葉は思ったよりも小さかった。まだ薬の抜けきっていないためか、意識は薄絹を幾重にも束ねたようにぼやけている。だるさで再び沈もうとする意識を言葉を連ねることによって繋ぎとめる。
「誘拐などして、何になる? 人を愚かだと笑っていたお前がこんな無為な行動をとるとは、滑稽もいいところだ。殿下が笑劇を好まれるとは存じ上げませんでしたよ」
皮肉を放ちながら縛られた両手を動かしてみるが、縄は解けそうにない。
「殿下、準備ができました」
タナッセの後ろに男が現れた。フードで顔を隠した長身の男。得体の知れぬ気味の悪さに内心ぞっとする。
殺すつもりか。それとも、犯すつもりか。
じりじりとせりあがってくる恐怖に暴れだしたかったが、きつく縛られた拘束がそれを阻む。タナッセが身を引くと男がしゃがみ、レハトの顔を覗き込んだ。
黒いフードから視認できる瞳は冷たく光がない。人のものというよりも、獣のそれに近いと思えた。
「っそうか。非力な己の力ではどうすることもできないから、お前は人を使うのか。つくづく哀れな男だな。だから、神もお前に印を授けなかったのだ」
「……いつまでその態度でいられるか、見物だな」
男が額に触れる。全身に走る怖気に吐き気を覚えた。
「神だけじゃないっ! お前を愛する人間なんて、誰一人としていないんだ!」
恐怖に震えた暴言に、目の前の男が微かに笑った気がした。驚いて男をみやるが、男の口元は感情なく閉ざされている。
詠唱の後に光に包まれる。そこでようやく男が人ならざる魔術師であることに気がついた。けれど男の正体が判明したからといって何ができるわけでもなかった。
地面から放たれる光に反して、レハトの意識はずるずると闇へと引きずり込まれていく。音も視界も精彩を失い始め、肌を切り裂きそうな冷たさが体を蝕んだ。自分の中の何かが失われていく。それだけははっきりとわかった。
動くことはおろか、声すら発することができない。ゆっくりと閉ざされていく瞳を意味もなく動かした。
ふいに今までの出来事が脳裏に浮かんだ。己を女手一つで育ててくれた、優しい母親。村一番のガキ大将と彼を諌めてくれた近所の友達。自分を快く歓迎してくれたリリアノやヴァイル。慣れない城の生活を支えてくれたローニカとサニャ。
嫌なことや苦しいことがあったはずなのに、浮かんでくるのは良い思い出ばかり。
ああ、このまま楽しかった記憶に包まれて死んでいくのか。諦念にも喜びにも似た気持ちを抱いた、その時だった。
「――止めだ!」
うつろになっていく世界の中で、何故だかその声だけが明朗に響いた。
苦痛の滲んだ、けれど意思ある声。こんな記憶などあっただろうか。
額が突如熱を持つ。それと同時に、何かが自分の中に注ぎ込まれていく。それが何かはわからない。だけど、何故だか泣きたいほどに嬉しかった。
ふわりと体が浮く。ゆらゆらとゆられていくうちに、レハトの意識は静かに眠りへと落ちていった。
***
目を開くと見慣れた白い天井が映った。体がだるくて少し身じろぎをすると、聞きなれた声が耳に飛び込む。
「レハト様!?」
目を動かせば、サニャが涙を浮かべて駆け寄ってくるのが見えた。
「お目ざめになられたんですね! よかったっ……!」
彼女がどうして泣きそうなのか理由がわからないし、頭が重いせいでかける言葉も見つからない。
記憶も意識も曖昧な中、何かが足りないという強い思いだけが明確な形をもって己の胸にあった。失ってしまった大切なもの。正体不明のそれを、自分はどうしようもなく求めている。
彼女の声を聞きつけたのか、ローニカも姿を見せた。彼に伴われてきた医師がレハトの脈を測ったり額に触れたりして体調を診る。医師の手が己の体温よりも遙かに高くて驚いたが、一瞬医師の眉間に刻まれた皺のおかげでレハトの体温が低いのだと気がついた。
何故こんなにもだるくて寒いのか。医師の診察を大人しく受けているうちに、だんだんとその答えが蘇ってくる。
タナッセに騙され、魔術師に術をかけられ。あのまま死んでしまうかと思ったが、自分は生き伸びることができたのか。
「お腹がすきましたでしょう。ひとまず、こちらをお召し上がりください」
具のない温かいスープ。それはレハトの体を内から温めてくれたが、同時に不満も抱かせた。
自分が切望しているのはこれではない。
では、何が欲しいのか。判然としないままスープを飲み干した。
「レハト様。病みあがりの時分にこのようなことをお聞きするのは申し訳ないのですが……貴方様をこのような目に合せたのはどなたでしょうか」
継承者である自分を死の危険に晒したとなれば、死罪は免れないだろう。目の上のたんこぶであったあの男を排除するには絶好の機会だ。
だが、レハトの口からタナッセの名前はでてこなかった。訝しげにローニカは眉をひそめたが、口元を固く引き結んだまま首を横に振ると彼は諦めたように嘆息して頭を下げた。
空腹が満たされた体を横たえ、目を瞑るが眠気は一向にやってこない。暇つぶしに読書をする気分でもなく、自然と思考は彼へと帰結する。
憎く、自分を殺しかけた相手を告発しなかったのは何故か。
己の中にその解はあるはずなのに、見つからない。
レハトを殺すのに失敗し、事件の発覚を恐れて逃亡しているかもしれないから? もうこの城にいないかもしれないから、ローニカに告げなかった?
タナッセが逃亡している可能性は高かったが、それが彼を庇う理由にはならない。
彼が自分を殺さなかったから? 見逃してもらったからその礼のつもりで助けたのか。
こちらの方がしっくりと来たが、それだけではないような気がする。
窓辺に広がる青空を見ながら思考に耽っていると、鈴の音が鼓膜を揺すった。
誰かと会話するつもりがないため、立ち退いてもらおうと音のした方を見て固まる。予想もしない姿がそこにあった。
「…………」
無言で自分を見下ろすタナッセの顔には困惑の色が浮かんでいる。当然だ。レハト自身にさえ、彼を助けた意味が理解できないのだから。
だから、先手を打った。
「どうして僕を殺さなかった?」
レハトの方から声をかけてくるとは思わなかったのか、傍目にもわかるほどはっきりと彼は動揺した。救いを求めるようにその視線はあちらこちらへと動いたが、やがて観念したかのように答えた。
「ただの、きまぐれだ」
あの魔術師は彼が内密に城に招いたのだろう。きっと相当の時間をかけたはずだ。周到に計画したであろうものを、そんな理由で明らめきれるのだろうか。
疑問が生じたが胸に留める。自分も彼を助けた意図を答えることはできないのだから。
場に沈黙が沈む。お互いに放つべき言葉がわからなかった。
けれど、長い溜息のあとに彼は口にした。どうして告発をしなかったのかと。
「君と同じ。告発する気分じゃなかったから」
「そんな……そんなはずがないだろう! お前は死にかけたのだぞ。今私を突き出しておかなければ、また命を狙われる恐れもある」
「僕を殺すなら、もうすでにしているはずだ」
「……たとえ。たとえ、私にお前を殺す意思はなくとも、今回の件で犯人が処断されなければ、お前を狙うものもいるだろう。命ではなくとも、お前の後見人になるために非道な行いをする者など、いくらでもいるっ!」
彼の声は怒気をはらみ、眉間にも皺が刻まれているのに、どうしてか彼の言葉はレハトの身を心配しているように聞こえる。
「――なら、タナッセが僕を守ればいい」
「なっ……」
零れた言葉に自分でも驚いたが、それが一番いいことのように思えた。
「そうだよ。僕の命が危険に晒されるというなら、タナッセが僕を守ってくれればいいだけだ」
「なにを言っているのかわかっているのか!? 私はお前を殺そうとした。そんな相手に警護を頼むなど、馬鹿げている!」
彼の言う通り、なんて馬鹿げた頼みなのだろう。自分は頭がおかしくなってしまったのだろうか。
「……お前にとって、私は良くない存在だ。お前が訴えないというのならば、私はお前の前から消えよう。それが、一番だ」
そう言って彼は踵を返す。
「待って!」
彼をこのまま行かせては二度と会えない。そんな確信めいた思いが浮かび、慌てて彼の後を追おうとする。
けれど、今は病みあがり。体は本調子ではなく、安静にしてなければいけない時期。
レハトの意思についていくことのできなかった体は前のめりに倒れた。
打ちつけた右腕がひどく痛む。立ち上がろうとしたが、腕に力が入らない。
「お前、何をやっている!」
レハトが倒れたことに気がついたタナッセが怖い顔をしながら、こちらに手を伸ばす。子供の自分より幾分大きなその手がレハトに触れる。
刹那。どくりと大きく心臓が脈打った。触れた部分が痛いほど熱く感じる。
「まだ完治していないんだ、安静にしていろ」
そうして自分を抱えようとする彼の服を攫む。
「タナッセ、わかったよ」
「後で聞く。手を放せ。今はベッドに戻ることが先だ。地面に倒れたままでは病状がさらに悪化するだろう」
「君を告発しなかった理由、わかったんだ」
ぴたりと彼の手が止まる。怪訝な顔をする彼に微笑んだ。
「僕、君が好きだ」
「………………」
鳩が豆鉄砲を食らったところなど見たことはないが、きっとこんな顔をしているのだろうか。
タナッセは目を丸くしたまま、レハトをじっと見つめている。瞬きすらもしていないとは余程驚いたのだろう。
「……な、にを冗談を言っている」
たっぷりの沈黙のあとに放たれた言葉は彼にしては弱々しいものだった。
「冗談じゃない。僕は君が好きだ。だから、告発しなかった」
「……お前は」
混乱した彼は一度口を閉ざし、言葉を探すように視線を動かす。やがて答えが見つかったのか、口を開いた。
「お前は、病気で一時的に混乱しているだけだ」
「違う」
「違わない。でなければ何故……私などを好きだと思える」
否定する彼の声が悲しく響く。
「君のしたことは十分理解している。それでも、僕は君が好きなんだ」
彼の服を握りしめ、告げる。自分でも突然の心変わりに理解が追い付かないが、それでもこの胸に宿った気持ちは本物だと断言できる。
信じられないものを見るようにタナッセはこちらを見つめ返したが、静かに首を振った。
「……お前のその気持ちが嘘ではないとしても、それはきっと作られたものだ。あの魔術は私とお前を繋いでいた。お前のその想いはその結果植えつけられたものだ。お前はただ、魔術に惑わされているだけに過ぎん」
否定はできなかった。この城で一番嫌悪していたタナッセにこれほど焦がれるなど、それこそ魔法でもなければあり得ないことだろう。
「……なら、それでいい」
「なにを――」
「この気持ちがあの男に作られたものだって構わない。きっかけなんてどうだっていい! 僕はタナッセが好きなんだっ、どうしようもなく!」
例え魔術により芽生えたとしても、この恋情はレハトの中で息づきどんどん大きくなっている。きっかけなど、些細なことだ。
触れたところから伝わる熱。これこそが自分が求めてやまないものなのだから。
「タナッセは、どうなの? 僕が魔術のせいでこんな気持ちになっているのなら、タナッセだって――」
自分が何を言っているのかに気が付き、口を噤む。
思いに任せてなんてことをいったのだろうか。
「ご、ごめん。迷惑なのはわかってる。もう、言わないから」
慌てて立ち上がろうとした腕が攫まれ、心臓が跳ねる。顔をあげると婀娜なる瞳にぶつかった。頬に手が添えられる。
触れたのは一瞬。けれど唇から広がる熱は顔へと広がっていく。恍惚としていると、抱きしめられた。
「私も……惑わされているのかもしれないな」
告げられた言葉は口づけと同じように熱を孕んでいた。
かもかて、ダンマカの二次創作サイト。
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