僕は赤児の頃から国はずれの辺境の村に住んでいた。けっして豊かとは言えない暮らしだったけれど、大好きな母さんと優しい人たちに囲まれて幸せだった。ずっとこんな生活を続けていられると思っていた。
けれど、そんな僕の願いはある日突然壊された。
「――っ、母さん!」
駆け込んだ神殿内には静寂が満ちており、僕の声だけが響く。
神官様は悲痛な眼差しをこちらへ向け、村長は悲しそうに首を振った。
嘘だ。震える唇を噛み締めて、二人の側に横たえられた母さんに近づく。その手をとった瞬間、僕の中にわずかにあった希望は砕け散った。
母さんの手はぞっとするほど冷たく、硬直していた。顔だけを見れば、ただ眠っているように見えるのに。
「……かあ、さん……」
本当に死んでしまったのか。
「崖から足を滑らせて……ほぼ、即死だったそうだ」
それなら苦しまずに山へと旅立てたのか。母さんの顔には一切の苦痛がなく、穏やかな表情のみが浮かんでいる。それが唯一の救いに思えた。
「葬儀の、準備をしないといけませんね。神官さま、お願いできますか?」
「……ああ。君が望むなら、明日にでも行おう」
「でしたら、それでお願いします」
ゆっくりと母さんの手を元に戻し、黙祷する。瞼の裏に今朝見た母さんの笑顔が浮かんだ。
「……レハト」
「はい」
見上げた村長は迷うように一度視線を逸らしたが、僕の目を見つめて言った。
「困ったことがあれば、なんでも言ってくれ。君はこの村の一員だ。できる限りのことはしよう」
「はい。ありがとうございます、村長」
微笑むと、複雑なものではあったが村長も笑みを返してくれた。
「――では、僕はそろそろ帰ります」
神官様と葬儀の打ち合わせを終えると、外は暗くなっていた。
「レハト、お母さんはどうする? 君の家に運ぶのなら、すぐに人を呼ぶが」
「このままここで寝かせてあげてください。母はあまり人の手を煩わせるのが好きではないので」
「だが――」
「それに、母は神様が好きでしたから。最後の夜なので、神殿に寝かせてあげたいんです」
そう言われてはそれ以上強くは言えない。神官様たちは戸惑いながらも了承してくれた。
帰路につく途中、やはりきちんと別れの挨拶をしておいた方がいいのではないかと思い、神殿へと引き返した。中に入ろうとした僕の足を、静かな話し声が止めた。
「前々からしっかりした子だとは思っていましたが、母親が亡くなってもああだとは驚きました」
「母一人子一人でしたし、母親もあまり体が丈夫な方ではなかった。おそらく、前々から覚悟はしていたのでしょう」
「大人顔負けの落ち着きようでしたね。あの年であれほどとは、少しかわいそうな気もしますがね」
「そうですね……。ですが、それも神が彼に与えた道です。彼のあの冷静さはいつか人の為になるはずです」
「……彼は人の上に立つべき人間ですね。何があっても動揺しない心は人をまとめる為には必要です」
「次期、村長候補ですね」
二人はそれから明日のことについてまた話し始めた。
出るに出られぬ空気の為、僕は諦めて家へと帰ることにした。別れの言葉は明日葬儀が始まる前にも言えるだろう。
夕闇が迫っていた。鳥が鳴く声を聞きながら、僕は一人墓の前に立っていた。
墓石には刻まれたばかりの母さんの名前がある。
未だに母さんが死んだという実感が持てなかった。あの冷たい手も死に顔もよく覚えているというのに。
「――レハト」
村長が抱えていた花を僕に渡した。淵だけわずかに白に染まった赤い花。生前母さんが好きだった花。
「ありがとうございます、村長。母も喜びます」
風に煽られ、花の優しい香りが鼻腔をくすぐった。母さんと過ごした日々を思い出し、しばし感傷に浸る。
「……レハト。お母さんが亡くなったばかりでこんなことを言うのは悪いんだが……」
言いにくいのか、村長は一度口を噤んだ。
「君の額をきちんと見せてくれないか?」
僕の額には痣がある。緑色の光を放つ痣は周りの人間に不気味に映るから誰にも見せるなと母さんに強く言いつけられていた。
「あ、いや、……実は今日、君の額が偶然見えたんだ。何やら痣の様な物があったような気がしてね。もし、何かの病気だったら、放っておくのは良くないだろう。君が体を悪くしたら、お母さんもきっと悲しむだろうしね」
それもその通りだ。母さんには固く禁じられていたが、村長は僕を心配してくれているのだ。驚きはするだろうが、見せても困ることはないだろう。
僕が額の布をとると、村長は息を飲んだ。
「まさか……本当に……」
「もしかして、悪い病気なんでしょうか? 命に関わるような」
村長の様子に胸に不安が過ぎった。
「あ……いや! 悪いものではない! むしろ……これからの君にとっては良いものと言えるだろう」
「そう、なんですか?」
病気ではないようなのでほっとしたが、村長の態度には釈然としない。
「王城の方にきちんと見てもらわなくてはならないがね。間違いなく本物だろう。君のこれから先の暮らしは今までとは違う、素晴らしいものになるだろう」
村長が何を根拠にそう断言できるのか不思議だったが、まっすぐこちらの目を見て告げる村長は、本心から言っているようだった。そのため、僕は何も言葉を返すことができなかった。
***
「ほら、あの子よ。例の第二の寵愛者!」
「えー、うそ。普通の子供じゃない」
「しかも字も録に読めない田舎者ですって!」
晴天の下で行われる噂話には遠慮さがない。すぐ近くに僕がいることに気づいていないのか、それともわざとなのか、使用人の彼女たちは仕事をそっちのけで僕の話をしている。
村長はあの後、僕の存在を王に知らせた。この額の痣はただの痣ではなく、次期国王を示す選定印だったのだ。母さんはこの事を知っていて、額を隠すように言い聞かせたのだろうか。
僕の他にも選定印を持つ人がいて、王を継ぐのは彼だともっぱらの噂だった。一応僕にも継承権はあるらしく、リリアノはこの一年の結果を見て、どちらを王にするか判断すると告げた。
かたや何人もの王を輩出した家柄で、その上王としての英才教育を受けた王族の人間と、かたや田舎中の田舎で生まれ育ったただの子供。勝敗など、初めから決まり切っていた。
「いいよねー。額に印があれば、ど田舎出身でも贅沢な暮らしができるんだから」
「あたしにも選定印があればなあ」
あげられるものならば、僕だって是非あげたい。この印がある以上、僕は村に戻ることができないのだから。
こちらに害のないたわいのない噂話ではあるが、どうにも煩わしい。
このままここで日に当たるつもりだったが、このような会話を聞き続けるのはごめんだ。どこか他にくつろげる場所に行こう。
中庭にはちらほら人の姿が見えるが、もう少し奥にいけば誰もいないだろうか。そう思い、人目を避けて進んでいくとわずかに森が開けた場所を見つけた。
あたりに人の気配はなく、生い茂る木々の隙間から柔らかな日差しが降り注いでいる。
故郷の山に似た穏やかな雰囲気に、自然ため息が零れた。
近くに折れた枝を見つけ、何気なく手に取る。小さい頃はこんな枝で衛士の真似をして打ち合いをしていたものだ。
ためしに振ってみると、枝は軽快な音を立てて風を切った。もう一度振ってみる。びゅん、と音が響く。びゅん、びゅん、びゅん。
夢中になって振っていた僕の意識を戻したのは、枝葉の揺れる音だった。
驚いてそちらを向くと、同じように眼を丸くした青年が片手で枝をつかんで佇んでいるのが見えた。
身に覚えのない顔だ。身に着けているものから衛士だとはわかるが、なぜここにいるのだろう。ここは彼の散歩コースなのだろうか。
しばし流れる沈黙の後、青年は気まずそうに頬をかきながら口を開いた。
「あー、悪い、邪魔して。丁度巡回していて、音が聞こえたから気になって見にきたんだ」
「……そうなんですか」
巡回であるなら、この人もすぐにどこかへ行くのだろう。そう安堵したが、青年はなかなか立ち退かない。それどころか、僕のほうへと歩み寄ってきた。
「え……あの」
「お前、剣の練習してたのか?」
咄嗟に枝を背に隠すが、もう遅い。彼には先ほどの素振りをばっちり見られている。
「練習というほどではないですが……」
「さっきちらっと見えたんだけどさ、結構太刀筋よかったぞ。よかったらもう一度見せてくれないか?」
「え」
「こんなところで練習してるってことは、お前、こっそり上達したいんだろ? 俺こんなんでも一応衛士だからさ。何かアドバイスすることはできるかもしれない」
にっこりと人好きのする笑みを浮かべる青年の申し出を断ろうと思ったが、何故だか拒否の言葉はでてこなかった。
彼にもう一度枝を振ってみる。それを見た青年はいくつかアドバイスをくれ、言われたとおりにやってみると、先ほどよりも体が俊敏に動き素振りの速度も上がった。
「そうそう。できたら枝なんかよりも剣のほうがいいんだけどな。お前に合いそうな剣、今度もってきてやるよ。とりあえず、今日は……」
あたりを見回した青年は僕が持っているものと同じくらいの長さの枝を手にとった。
「これで打ち合いをしてみるか」
それからしばらくは彼にアドバイスを貰いながら打ち合いをする。こうして人と打ち合うのは、いつ以来だろうか。童心に戻り、夢中で枝を振るった。
「よし、今日はここまでにしよう」
ぜえぜえと息をつく僕を見下ろしながら、彼はそう笑った。
この城に来てからろくに体を動かさなかったためか、体中の筋肉や節が悲鳴を上げていた。けれど、それに反して心はすっきりとしている。鬱々としていたのはただの運動不足だったのだろうか。
「……ありがとうございます」
荒い息のなかそういうと、彼はくしゃくしゃと僕の頭をなでた。
「俺が暇なときはいつでも相手してやるから、言ってくれよな。あと……もし、嫌なこと言われたりされたりしたら、遠慮なく言ってくれ。俺がガツンと言ってやるから」
「……嫌なこと?」
「訓練場じゃなくてこんなところでこっそり練習してたってことは、誰かに嫌味でも言われたんだろ? 衛士のやつら、根はいいやつらなんだけど、口が悪いやつもいるからな。からかいや冗談のつもりで言ってても、慣れてないと傷つくこともあるだろうし」
「……大丈夫ですよ。僕、何言われても気にならないし」
先ほどのメイドたちの会話が頭に過ぎる。うっとうしいと眉は潜めたが、特に悲しいとは思わなかった。 所詮赤の他人の言葉。僕にとってはどうでもいいものだ。
そもそも、今の僕には大切なものなどなかった。たった一人の家族であった母さんは死んでしまったし、仲の良かった友達にももう二度と会えはしないだろうから。
だから、僕はもう傷つくことなんかないんだ。いつでも冷静なレハトであれる。
……そう、思ってたのに。
「だけどお前、泣きそうな顔してるじゃねぇか」
彼のその言葉に急に視界がぼやけた。目の奥が熱くなり、喉から嗚咽が零れる。突然のことに自分でも涙の理由がわからず呆然としていると、彼が静かに僕の頭をなでた。
不器用な手つきで僕を慰める彼の手に、ますます涙があふれる。
「……つらかったな。大丈夫、俺がいてやるから」
つらい? 僕はつらかったのだろうか。ずっと……母さんが死んでしまってから。
自問するが、答えは既にでていた。
とめどなく流れる涙、喉から零れる嗚咽、子供のように青年にすがりつく手。
僕は、ずっと泣きたかったんだ。この悲しみを誰かに打ち明けたかったんだ。
けれど、僕はそれができなかった。村では「泣き言ひとつ言わずに母を懸命にささえる子供」で、この城では「神に選ばれた候補者」だったから。
この青年は僕がこんなに泣く本当の理由を知らない。けれど僕の心を察してくれた。
それが、とても嬉しかった。
「もう、大丈夫か?」
ひとしきり泣いて落ち着いた僕は涙を拭きながら頷いた。彼はそうかと微笑むと、またくしゃくしゃと頭をなでた。
「またなんか辛いことがあったら、いつでも言えよ。俺にできることがあるなら、何でもするから」
「ありがとう」
「……ああ、そろそろ戻らないとまずいな。お前――っと、名前、なんて言うんだっけ?」
「レハトと言います」
「レハト? ……どこかで聞いたような気が」
「最近ここに来たばかりなので、もしかしたら話題に上がったことがあるのかもしれません」
「そっか。俺はグレオニー。グレオニー・サリダ=ルクエスだ。よろしくな、レハト」
差し出された手を握ると強く握り返された。にっこりと笑顔を浮かべながら、彼は立ち去った。
「グレオニーさん、か……」
不思議な青年だ。初対面であるのに、何故か僕はあの人を拒まなかった。素直に心を打ち明けられた。彼の笑顔や雰囲気がとても心地よかった。
「また会いたいな」
彼は衛士と言っていた。なら、訓練場に行けば会えるだろうか。
***
訓練場は訓練に励む衛士たちで活気付いていた。多くの強靭な男たちの姿に入るのに躊躇していると、一人の衛士が近づいて来た。
「どうされましたか、寵愛者様」
物腰の柔らかい人だ。彼にグレオニーさんを呼んで来てもらおうか。
「あの……グレオニーさんはいらっしゃいますか?」
「えっ、グレオニー……ですか? ああ、すみません。知っている顔なのでびっくりしてしまって……。あいつは今城の巡回をしていますよ」
「ありがとうございます。……ええと、あなたのお名前は?」
「フェルツと申します。それとレハト様、俺に敬語は不要です。俺はただの衛士なんですから」
そう言われてはっとする。先日もローニカに注意されたばかりだった。
僕は今や次期国王候補。ただの田舎者の子供ではなくなってしまったのだ。現国王の次に権力を持つもの。そんな存在が侍従たちに敬語を使うなど、あり得ないこと。僕自身が気にしなくても、相手は周りの人間に不遜な者だと見られてしまう。
「はい、わかりまし……わかった。教えてくれてありがとう、フェルツ。グレオニーを探してくるよ」
「あいつに用事があるのでしたら、俺が言付けをしましょうか? もしかしたら会えないかもしれませんから」
「そんなに急ぎの用じゃないから、大丈夫だよ。それに、僕まだ城の構造把握してないから、城を見て回るいい機会だし」
「そうですか。……多分、この時間なら屋上あたりにいるんじゃないでしょうか」
曇り始めた空を見ながら、彼はそう教えてくれた。
「わかった。行ってみるよ」
フェルツは優しげな笑みで僕を送り出してくれた。
屋上へ向かう間に、雨雲はみるみる内に空を覆い尽くし、とうとう雨が降り始めた。
「急がないと……」
雨が降り始めては、屋上の巡回が出来なくなり違うところへ行ってしまうかもしれない。
慌てて階段を駆け上っていくと、屋上へ続く扉を閉める彼の姿が目に飛び込んだ。
「あれ、レハト。そんなに急いでどうしたんだ? 屋上は雨で濡れているから封鎖したぞ」
「……えっと、先日お世話になったので」
ふいに先ほどのフェルツとの会話を思い出す。彼にも敬語を使うのはやめた方がいいだろうか。
「グレオニーさん、よかったら敬語ではなく、普通に話してもいいですか?」
「ん? ああ、構わない……というか、そっちの方が嬉しいな。距離近い感じがするし。あと、さん付けもいらない」
「ありがとう、グレオニー。ええと、それで、この間……稽古に付き合ってもらったでしょう? そのお礼を持ってきたんだ」
彼の腕の中で子供のように泣いた事が頭を過ったが、あえて言わなかった。
食堂でもらってきたばかりの焼きたてのお菓子を取り出してグレオニーに渡す。
「お、美味しそうだな! もらっていいのか?」
「うん、この間のお礼。そのお菓子とってもおいしいんだ。僕のお気に入り」
「そっか。じゃあ、一緒に食べるか?」
グレオニーは階下の様子を窺ったあと、階段に腰掛け、レハトにも座るよう促した。
「え、でも大丈夫? 今グレオニー仕事中じゃ――」
「少しくらいなら大丈夫だよ。こうやってるのも、見張りになるしな」
それもそうか。
納得して隣に座った僕に、彼が焼き菓子を差し出す。
「お、ほんとだ、これ美味いな!」
にこにこと笑いながら食べるグレオニーに、自然と頬が緩んだ。彼に倣い、焼き菓子を頬張る。いつもよりも、ずっと甘く、美味しく感じられた。
それを告げると、グレオニーは楽しそうに頷いた。
「誰かと一緒に食べるとさらに美味くなるよな!」
たくさん持ってきたつもりだったけど、焼き菓子はあっという間になくなった。
グレオニーは笑顔で礼を言うと、仕事に戻って行った。
その後ろ姿を名残惜しく見送りながら、また彼とこうしてお菓子を食べたいなと思った。
その数日後。午前の勉強を終えた僕は、グレオニーに会いに訓練場へと行った。
以前と同じく訓練場には衛士がたくさんいて気後れしたが、フェルツが僕を見つけて声をかけてくれた。
「レハト様、こんにちは」
「ああ。こんにちは、フェルツ。この間はありがとう。おかげでグレオニーに無事に会えたよ」
「それはよかった。……そういえば、レハト様は今日は訓練にこられたのでしょうか? それともまたグレオニーをお探しでしょうか?」
「グレオニーに会いたいんだ。いるかな?」
僕の答えを予想していたのか、フェルツはちょっと待っててくださいと微笑んだ。そして、訓練場の奥のほうにいたグレオニーをつれてきてくれた。
目当ての人物に会えてはずんだ胸に、戸惑いが生じる。
何故かグレオニーはがちがちに緊張していた。僕を見て笑顔を浮かべてくれてはいるが、顔も体もが強張っている。
「え……っと、グレオニー、こんにちは」
とりあえずそう声をかけると、グレオニーは90度腰を曲げて頭を下げた。
「数々の無礼、申し訳ありませんでした!!」
突然の謝罪に僕はぽかんと口を開けた。
呆然とした僕の様子を気づくことなく、グレオニーは頭を下げたまま謝罪を連ねる。
「まさか、あなた様が寵愛者様だとは知らず、大変失礼いたしました。私の言動にさぞお怒りになられていることでしょう。なんとお詫びをすればいいのか――」
「ちょ、ちょっと待ってよ、グレオニー! 急にどうしちゃったの?」
頭を上げてくれるように頼むと彼は恐る恐るといったように顔を上げた。
「あの、突然そんな風にかしこまられても、僕困るよ。できたら、今までのようにしてほしいんだけど」
「あれはあなた様のことを知らず行った愚行。再びできるはずありません」
再び非礼を詫びるグレオニーに胸がちくりと痛んだ。
この痣の意味を知ってまだ数日しか経っていないが、それでもその重要性は理解している。初めは戸惑ったけど、周りの人間が僕のような人間に畏まるのも大分慣れた。
けど、グレオニーにこんな風な態度をとられるのは悲しかった。ただのレハトとして接してくれた彼に戻ってほしかった。
「……僕は、気にしてないから。これから気をつけてくれればいいよ」
でも、そんなわがままを言えるはずなかった。グレオニーの負担にしかならないのだから。
僕の言葉にグレオニーはほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます。以後、気をつけます」
浮かんだ笑顔は以前のような気安さはないものの、先ほどのような恐れはなかった。僕はそれに薄く笑みを返した。
グレオニーの態度はそれからも変わることはなかった。二人きりのときでさえも、彼はかたくなに敬語を崩すことはなく、一定の距離を保っていた。
しばらくは以前の場所で話したり剣の稽古をしたりしたが、僕の希望で訓練場で会うことが多くなった。
僕が衛士にからかわれて傷ついたと思っているグレオニーは初めの頃は心配したが、僕の様子を見て大丈夫と判断したようだった。
「レハト様、今日もこられたんですね」
笑顔で迎えてくれたグレオニーと今日も訓練を開始する。
彼に会いたさに毎日剣術に励んでいたため、僕の腕は少しずつ上達していた。彼との打ち合いも長時間続くようになり、楽しくて仕方なかった。
「レハト様、上達されましたね。すごい成長速度ですよ」
自分のことのように嬉しそうに彼が笑ってくれるのも、僕にとっては褒美だった。
「おい、グレオニー。そろそろ警備の時間だぞ」
「ああ。もうそんな時間か。すみません、レハト様。俺そろそろ行きます」
「うん。いってらっしゃい。頑張ってね」
名残惜しいが、仕事ならば仕方がない。
グレオニーは僕に手を振り返すと、迎えに来た衛士と共に歩き出した。
「今日、お前と門番なんてついてねーなあ。雨、降らさないでくれよ?」
「そんなこと俺に言われても知るか。それより、お前今日はちゃんと剣持ってるだろうな?」
「だいじょーぶだって! ほら、この通り身につけてるし」
お互いに軽口を叩きながら去って行く二人の姿に、羨ましさを覚える。グレオニーは僕に親切にしてくれるが、あのように親しげに話しかけてくれることはなくなった。どうしても一線引かれてしまう。
年が明ければヴァイルが王になる。僕はただ徴を持った一人の人間となる。そうすれば、グレオニーは以前のように接してくれるだろうか。
ああ、でも候補者である以上、なんらかの身分を与えられるのかもしれない。貴族と衛士では今と変わらない。
「もし、衛士になれたら……」
そうしたら、みんなと同じように気軽に笑いかけてくれるだろうか。
「レハト様、衛士になりたいのですか?」
その言葉で自分が独り言を呟いていたことに気がついた。
フェルツは僕の隣に座ると、訓練をしている衛士たちに目をやった。
「レハト様は上達が目覚しいですし、望めば衛士長にも貴族付きの衛士にもなれるでしょう」
「ほんと?」
「ええ。成人なされたら、御前試合にでられるのもいいですよ」
聞きなれない言葉に首をかしげると、フェルツは丁寧に説明してくれた。
御前試合とは王や神の前で衛士同士で行う試合のことで、ここで良い成績を残せれば平民出身でも出世が見込めるという。グレオニーはこの試合で優勝し、貴族つきになれることを目標にしているらしい。
「あいつは腕はあるんですけどね、緊張しやすいやつだから、なかなか良い結果を出せないんですよ。今月の試合も三回戦に進むことができなかったですし」
「グレオニー、今月の御前試合に出てたの?」
「はい」
知らなかった。グレオニーの口から一言もそんなことを聞いたことがない。
「レハト様の前で失態を見せたくなかったのかもしれませんね。あいつレハト様の前では格好つけるところがあるから」
「そっか」
「レハト様と打ち合っているように、のびのびと剣を打ち込むことができればな」
そうぼやくフェルツの言葉を聴きながら、僕は衛士たちの打ち合いを眺めていた。
***
空には快晴が広がっていた。透き通る青を眺めながら、僕は剣を握る。
対戦相手は僕と同じで、御前試合初出場の衛士だった。彼とは幾度か対戦をしたことがあったが、いつも僕が勝っていた。落ち着いてやれば大丈夫。そう言い聞かせて、僕は剣を振るった。
元々の実力と人の多さに圧倒された彼に勝つのに、そう時間はかからなかった。
「対戦していただき、ありがとうございます、レハト様。次の試合も頑張ってください」
剣を落とした彼は一瞬目を張った後、気が抜けたように笑った。
二回戦目の彼は一度も打ち合いをした事はなかったが、その強さはこの目で何度も見た事がある。 多少緊張はしたが、僕は先ほどと同じように勝利を納めた。
「……すごいですね、レハト様」
休憩室に戻ると、グレオニーがそうぼやいた。その視線は僕には向けられず、どこか遠くを見ている。
「さすがです。初めてなのに空気に呑まれることもなく、勝つなんて。……俺なんかとは、全然違いますね」
「グレオニー……?」
笑顔や言葉に混じる不穏さに戸惑う。
どうして彼はこんなに怒っているのだろう。
僕の困惑を感じとったのか、グレオニーははっとして慌てていつものような笑みを浮かべた。
「次の試合も頑張ってくださいね! 邪魔になってはいけませんし、俺そろそろ行きます」
急ぐように控え室から退室する彼の背中には、僕を拒絶する空気があった。何も言えず、僕は不安のまま次の試合に移ることとなった。
グレオニーのことが頭から離れず、試合は苦戦した。けれど何とか相手の剣を弾き飛ばす事ができ、僕は決勝へ進んだ。
決勝戦は初出場の僕がいるためか、多いに沸いた。決勝ともなれば相手の実力は群を抜いており、しばらく打ち合った後、僕は剣を取り落としてしまった。
「いやー、初出場でここまでくるなんてすごいですよ!さすが、寵愛者様です」
人々が口々に僕を讃えるのが聞こえる。その中にグレオニーはおらず、僕は鬱々とした気持ちを抱えながら部屋に戻った。
「あれ、グレオニーいませんか? ……おかしいな、さっきまでそこにいたんですが」
衛士は申し訳なさそうな表情を浮かべて、訓練場をぐるりと見回した。
「もしかしたら、臨時で仕事が入ったのかもしれませんね。見かけたら、レハト様が探していたと伝えておきます」
「あ、そこまで急いでいるわけじゃないからいいよ。……また来るよ」
ため息をつきながら僕は訓練場を後にした。
あれから一週間ほど経つが、グレオニーと会うことはできなかった。仕事があるのかもしれないが、以前は二日に一回は一緒に訓練をしていた。
「避けられてる、のかな」
御前試合の時から彼の態度はおかしかった。もしかしたら、僕は彼に何か失礼をしたのかもしれない。
そう思うと不安でどうしようもなくなった。とにかく、彼に会いたくて仕方がなかった。
「……お久しぶりです、レハト様」
訓練場にやってきたグレオニーはぎこちなく笑顔を作った。
朝早くから待っていたおかげで会うことができたが、想像していた通り彼の態度は冷たかった。僕の正体を知った時よりも距離があるように感じ、生じる寂しさを誤魔化すように焼き菓子を取り出す。
「この前のお菓子また貰ってきたんだ。休憩時間にでも食べて」
「……ありがとうございます」
無機質な声。笑ってはいるが、極力感情を抑えているように感じられた。
「あ、のさ。よかったら一緒に訓練しない? しばらくやっていないし」
恐る恐る口にした提案はすぐに却下かれた。
「俺なんかと対戦するよりも、もっと強いやつとしたほうがいいですよ。その方がレハト様の為にもなります。……俺、そろそろ行きますね。お菓子ありがとうございます」
「…………」
グレオニーは僕を見ることなく、去っていった。
***
もう彼と以前のように楽しく打ち合うことはできないのだろうか。
グレオニーとの訓練を楽しみに生きていただけに、彼の拒絶は僕にとってなによりつらいものだった。苦しくて夜中に泣いてしまうこともあった。
何度申し込んでも、グレオニーは僕を拒む。それなら僕にとれる行動はただ一つ。御前試合に出場するしかない。
赤の月の御前試合は優勝することができたけど、グレオニーとの対戦は叶わなかった。
訓練場でたまに彼を見かけることはあったが、度重なる拒絶により話しかける勇気はもてなかった。
けれど、たまに彼と顔を合わせることがある。
「おーい、誰かまだいるのか?そろそろ封鎖する――……レハト様でしたか。ご無礼をいたし、申し訳ありません」
僕は無言で頷いて屋上を出る。続いて室内に入ったグレオニーは扉を閉めてこちらに向き直った。
「御前試合、優勝おめでとうございます」
「……ありがとう」
「レハト様は将来衛士になられるおつもりですか?」
「さあ……。特に考えていないよ」
彼と不仲になる前はきっと喜んで目指していただろうけど。
今の僕には未来への目標も希望もなかった。
「……衛士になられるおつもりもないのに、御前試合であんな良い成果を残すなんて、すごいですね」
彼の目には明らかな憎悪が浮かんでいた。
ああ、もうどうにもならないんだ。僕と彼の中は修復不能なほど拗れてしまった。
そう悟ったときに僕の胸に過ぎったのは、悲しみではなかった。
「だろう? それに比べてなんだ、お前は。衛士一本でやってきたくせに、僕より劣るなんて情けない」
「!」
目を剥いて彼は怒った。滾る憎しみが、僕には心地よく思えた。
彼が僕を見ている。こうして真っ直ぐに視線を向けられるのはいつぶりなのだろう。
「……そ、うですね。俺なんか、まだまだです」
「それが所詮、お前の実力なのだろう」
煽りではなく、本心から出た言葉。
彼が僕を憎むように、今となっては僕も彼を恨んでいた。
「……レハト様は本当にご自分の実力で勝てたとお思いなんですか?」
静かに発せられる言葉に嘲笑を返す。
「なんだ、僕が手加減をされているといいたいのか? あの試合を見て対戦相手の慈悲だけで勝てたと思っているのならば、お前は衛士失格だな」
「……んですよ」
彼の体は怒りで震えていた。
「邪魔なんですよ、あなたがいると!! みんな自分の力を発揮しきれないっ! 万一あなたを傷つければ、俺たちは罪に問われる、殺される! あなたの気まぐれで、人生が壊されるんですよ!!」
人気のない階段に、彼の荒い息遣いだけが響く。
愚かな男だ。僕の口元に浮かぶ侮蔑は同情にも似ていた。
「実力だけでなく、心根もとことん衛士に向いてない男だな、お前は」
彼の顔が歪むが、気にかけずに僕は息を吐いた。
「衛士をなんだと思っているんだ? 国の為、主の為に己の命を捧げるのが職務ではないのか。どんな結果になろうとも、最善を尽くす。それが衛士だろう。御前試合は衛士の決意を神に示す尊いもの。己の覚悟の強さを証明するよりも保身に走るから、お前は勝てないのだ」
「……なら。それなら、あなたと対戦する時は全力で戦ってもいいということですか」
鋭い眼光が僕を射抜く。
怒りに震えるその拳は、耐えるように握られていた。
「ああ。僕の命を奪うくらいの意気込みでやってみろ。お前にできるか、わからないがな」
「……わかりました。では、一切手加減をせずにやらせていただきます」
「それは楽しみだな」
嗤った僕を見ることなく、一礼すると彼は立ち去った。
彼ともう一度剣を交えることができる。それを期待して僕は一層訓練に励んだ。
黒の月の御前試合は今年最後とあってか、とても活気付いていた。
一回戦、二回戦と僕はなんなく勝ち抜いた。
そして三回戦目。僕の前に立ちはだかったのは、グレオニーだった。
「よくここまで勝ち残れたな。お前の実力では今まで通り二回戦敗退かと思っていた」
「――レハト様」
僕の嫌味を彼の意思の篭った瞳が弾く。
「俺は先日言ったように、全力で戦います。たとえあなたを危険に晒すとしても……俺は勝つ」
その言葉通り、彼の太刀筋には迷いがなかった。
僅かな隙を切り込み、反撃をはねつける。
――彼は本気だ。僕を殺すつもりで剣を向けている。
ふいに彼と目があった。殺意の籠る彼の瞳には、僕だけが映っている。ずっとここに僕だけを映していたいと強く思った。
剣が弾き飛ばされた。
今の僕は丸腰。憎悪を向ける彼の剣は止まらない。
ああ、そうか。僕は――。
肩に走る激痛が何故だか愛しく思える。霞む意識の中で、彼が何か言うのが聞こえた。
袈裟懸けに切られた僕の状態は結構危なかったらしい。
数日生死の淵を彷徨い、ようやく戻った僕をサニャは涙を浮かべて喜び、ローニカは安堵した。
あの後御前試合は急遽終了になり、グレオニーは寵愛者を傷つけたとして取り調べを受けた後、謹慎処分をくらったらしい。
「しばらく安静にしていれば、肩も以前のように動かすことができるそうです」
ろくに動けない僕の世話をしながら、ローニカはそう励ましてくれた。
グレオニーの処分はどうなるのだろうか。
そう考えていると、ローニカが複雑な顔で衛士長とグレオニーの訪問を告げた。
「どうなさいますか? お体の調子が悪いのであれば、断ることもできますよ」
「いや……大丈夫だよ。入ってもらって」
衛士長に伴われた彼の瞳にはあの時のような強い感情はなかったが、確固たる意思が宿っていた。
衛士長はグレオニーの罪を謝罪し、許しを乞うた。断罪に興味のない僕はそれを受け入れ、最後にグレオニーの謝罪で終わる――はずだった。
だが、彼は迷うことなく告げた。己の中にあった、僕への殺意を。
寵愛者への傷害は事故であればある程度の罪で許されるが、故意であるならば話は別だ。王国への、ひいては神への反逆行為となる。彼に課せられる罰は、死罪以外にあり得なかった。
彼の死刑は僕の篭りが明けて一週間後に執行されることになった。
彼が山へと旅立つ前に、僕は一目彼に会いたかった。陛下は僕を殺そうとした相手と対面させるのに躊躇したが、僕の再三に渡る懇願に、一度だけだと許可をくれた。
初めて入る牢は肌寒く、思わず身震いをする。
子供の頃なら平気だったのだろうか。女性の体は冷えやすいと聞いたことがある。男性を選択すべきだったか。
しばらく歩いていくと、突き当たりの牢に彼の姿が見えた。
何をするわけでもなく、鉄格子の嵌められた窓からただ外を見ていた彼は足音で僕に気がついた。
「――篭りが明けたんですね。元々綺麗でしたが、さらに美しくなられました」
額を隠していたが、彼は僕のことを一目見てわかった。それが嬉しくてつい口元が緩む。
「……。怪我の調子はどうですか? まだ、痛みますか?」
僕の態度が軟化しているためか、それとも死の前にすべてを諦めたのか、彼は柔らかく微笑んだ。
「痛くはない。ただ、多分傷跡は残る」
「それはよかった」
笑みと共に零れた言葉は皮肉も嫌味も孕んでいなかった。
「俺、あなたに剣を振り下ろした事、後悔していません。あの時、あなたの眼に俺が映っているのを見て、このままあなたを殺めたらあなたは俺だけを見て死ぬ事になる。そう思ったんです」
ああ。彼も、同じ事を思ってくれたのか。
「レハト様、以前俺に言いましたよね。御前試合は神にその覚悟を示すものだと。だから、俺は迷わなかった。アネキウスに、あなたに、俺の想いを証明したかったから。――俺は、きっとあなたがとても好きなんです」
息が止まりそうだった。胸にせり上がるものを、必死に堪える。
「俺はこれから死に、あなたはいつか伴侶を得るでしょう。あなたの瞳に俺が映ることはない。だから……。女性のあなたにはつらいものだと思いますが、あなたに消えない傷を残すことができたのがとても嬉しいんです」
これから死ぬというのに、彼は幸せそうに微笑んだ。
「……手を」
「え」
「手を、出せ」
僕の意図が理解できないグレオニーは不思議そうに目を瞬かせたが、素直に従った。
彼の手は僕のものとは違って骨ばっていて大きい。もっと違う形で触れたかった。そう思いながら、僕は彼の手に噛み付いた。
「っ! レハト様……?」
口 の中に広がる血の味。彼の親指の付け根にできた、輪を描く傷を見て、薬指につけてやればよかったと思う。
彼は明日処刑される。この傷は彼から消えることはないだろう。
僕に刻まれた傷跡と彼に残した傷。
歪ではあるが、これが僕らの愛のかたちなのだろう。
「レハト、様……」
「……お前は、本当に馬鹿だ」
頬を伝う涙が地に落ちる。彼に縋りつくことを阻む鉄格子を握り締め、同じ言葉を繰り返した。
己を貶す僕を見るグレオニーの顔は穏やかで優しい。
「はい。……今、それを思い知りました」
満足そうに微笑んだ彼の声は牢の冷気に静かに溶けて行った。
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管理人:紅葉
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