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ヨハネ黙示録からのダンス・マカブル考察

閲覧、拍手ありがとうございます!

聖書を調べていたら気にかかっていたことがわかったので、またつらつらと書きました。
ヨハネ黙示録やキリスト関連の知識はまったくなく、インターネットで調べたことを元に書いていますので、おかしいところが多々あるかもしれません。
さらっと読み流していただければ幸いです。

杭を打つ意味やマップ、ラザールの墓の位置のことなどはこちらの記事で。


追記からどうぞ。

拍手[20回]







人類の滅亡と復活を描いたヨハネ黙示録
本作はキリスト教色の強い作品です。教会を舞台に、イエス・キリスト(以後イエスとします)の磔刑を準えてアルエットを復活させる儀式を行う話です。
それに加え、ヨハネ黙示録の19章、子羊の婚姻も大きなモチーフとなっています。
ヨハネ黙示録とは、新約聖書の最後に記載されている物語で、聖ヨハネが神に啓示されたこれから起こる二度の破滅と復活が描かれています。
一度目の破滅はサタン(悪魔)に誘惑され堕落した人間に神が制裁を加えます。その後サタンを千年封じ、イエスによる千年王国が樹立されます。この王国はサタンが復活するまでの一時的なもので、永遠ではありません。そのため、この千年王国は地の国とも呼ばれています。
二度目の破滅はサタンの復活によってもたらされます。神を倒そうとしたサタンや彼に唆されたゴク・マゴク(堕落した人間)は天から降り注ぐ火により、消滅します。そして天と地が消え、地上に全ての死者が蘇り、最後の審判を受けるのです。
ヨハネ黙示録の子羊の婚姻は、人々を誘惑し堕落させようとするサタンを封じ、救済を求める人々を救う話です。子羊と花嫁が婚姻を結ぶことにより、人々は神の国(永遠の楽園)へといく事ができるのです。
ダンス・マカブルでは身廊にある聖書に子羊の婚姻が記されています。神父が朗誦するあの聖句がそれです。
正しい順番でつなぎ合わせると、以下の文になります。

わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。」
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、 花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである
それから、御使(みつかい)はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」

花嫁が婚姻の用意をし、結婚衣装を着たことによって結婚がなされています。花嫁とはアルエットのことで、光り輝く汚れのない麻布の衣はあのウエディングドレスでしょう。
ドレスを着て準備が整ったアルエットが婚姻を交わして、救済されるのです。ですが、作中では結婚の誓いをしたアルエットの罪は許されず、そのまま亡くなってしまいます。これはどうしてでしょうか。
実はヨハネ黙示録には隠語が多く含まれています。その解釈は複数あり、長年議論の対象となっていますが、ここでは私なりの解釈をします。
花嫁はアルエットで間違いありませんが、花婿となる子羊はラザールのことではありません。
キリスト教では子羊は神の子、イエスを指します。花嫁とは敬虔なクリスチャンです。サタンの誘惑にも負けない、強い信仰心を持つ人だけがイエスの花嫁になれるのです。婚姻とはキリスト教を信じるものだけが神の国に導かれる、という比喩なのです。



鮮明な姿のラザール、影だけの村人

では、何故ラザールとアルエットの結婚式があげられようとしているのでしょうか。
それは彼がサタンに唆されたゴク・マゴク(堕落した人)だからです。
サタンの望みは人々の堕落です。地上に破滅や絶望が蔓延する事を願いました。救世主イエスはそれを打ち砕く存在なので、なんとかして婚姻を止めようとしました。
キリスト教では一度結婚の誓いをした夫婦は離婚することはできません。そして、重婚も禁止されています。アルエットが子羊の婚姻を行う前にラザールと結婚してしまえば、花嫁はいなくなり、救いの道は途絶えるのです。
ここはアルエットの身体を模した場所です。身体の破滅=死。サタンは彼女の体に巣食うペスト。ラザールはペストの瘴気を受けて狂わされていたため、サタンに従いアルエットを死に招こうとしたのです。
また、サタンはアルエットを死に追いやる為に、他にも策を弄しました。
内陣には両脇に黒い人々がいます。ラザールの言によると、彼らは二人の故郷の人々。二人の結婚式のために駆け付けてくれたとのことです。彼らに近づくと、祝福の言葉をかけられます。皆心から二人の結婚を喜んでくれているようです。
この教会では基本的に3人(+一匹)と無数のネズミしかでてきません。ここはアルエットの体内ですから、本人以外では心の支えのラザールと治療をしている神父、そして彼女の体に巣食うペスト以外は立ち入ることができないのでしょう。
では、何故村の人々は内陣に入ってくることができたのでしょうか。
それは神へ永遠の愛を誓った時に明らかになります。二人の誓いの言葉が終わると、両脇にびっしりいた彼らは人からネズミに変わります。村人の正体はずっとアルエットを蝕む機会を窺っていたペストだったのです。
彼らはラザールと同じように、ペストに感染して亡くなった人たちでしょう。ラザールの死を知らないエンド4では、父と母がアルエットに声をかけています。アルエットは父だけでなく、母もペストで亡くしていたのです。
サタンが村人に化けたのはアルエットを死に至らしめるため。サタンは彼女の記憶に残っていた人々の姿を装ったのでしょう。ラザールと違って彼らがシルエットだったのは、サタンが化けているからでしょう。元となるアルエットの記憶が曖昧だからというのもあるのかもしれません。アルエットは当時嫌われていた粉屋の娘でした。村人とは一定の距離を置いて付き合っていたので、はっきりとした姿になるほどの思い入れもなく、ぼんやりとした形になったのでしょう。両親のシルエットもぼやけているあたり、もしかしたら家族仲も良好でなかったのかもしれません。
身廊の上部が横隔膜、内陣の赤いところが心臓なら、村人たちのいたところは肺。ところ狭しといた彼らが一気にネズミ(ペスト)に戻るということは、肺までペストに侵されるということです。肺ペストは致死率ほぼ100%のため、アルエットの死がここで確定されました。
エンド4では祭壇のところで神父が二人を見ていますが、彼は何を思ったのでしょうか。




アルエットは婚姻の秘跡を行っていた

カトリック同士の結婚では通常の結婚に加え、ミサが行われます。これを婚姻の秘跡といい、他宗教や他宗派との結婚では行われず、カトリック教徒だけの婚姻の時にだけ行われる神聖なものです。
ミサは感謝の祭儀ともいい、聖書を読んだり聖歌を歌ったりすることばの典礼とイエスの聖体を模したパンとぶどう酒を口にする聖餐が行われます。(時代や国によって細かいところは異なりますが、根幹はこの二つです)
婚姻の秘跡では、神父の開催の言葉から始まり、ことばの聖典、聖餐、誓いの言葉により婚姻が結ばれるのです。
ダンス・マカブルでは一見結婚式しかしていないように見えますが、実はミサも行われているのです。
神父の開催の言葉は神父一つ目のイベントの「キリエ・レイソン」。ことばの典礼での聖書は通常、旧訳聖書が読まれます。神父イベント4つめで神父が読んでいるのがそれです。
ですが、キリストが復活する復活祭から50日間はヨハネ黙示録などが読まれます。これはキリストの磔刑、及び復活の儀式です。そのため、この日は復活の日と捉えられ、旧約聖書ではなく、ヨハネ黙示録が読まれます。
ヨハネ黙示録は身廊の聖書です。順番にヨハネ黙示録を読むことにより、扉が開きます。(ことばの典礼の完了を示します)
神父を避けると「キリエ・レイソン」も聖書の朗読も起きませんが、読めなくとも黙示録を辿っていますので、扉は開くのです。多分声が届いていないだけで、現実世界では神父が読んでくれているのでしょう。
三つ目は聖餐です。聖餐は最後の晩餐で磔となるイエスが、パンを「これはわたしのからだ」、ぶどう酒を「これはわたしの血」と弟子たちにいったことを元に、「イエスのからだであるパンと血であるぶどう酒を口にすることで、そこにイエスが現存する」という尊い儀式なのです。
これは地下礼拝堂で聖杯用のパンを十字架の前で捧げることがそれに当たります。ちなみにパンを置くお皿も、チボリウムという聖餐で用いられる器です。ここはアルエットの身体です。地下礼拝堂は胃。十字架にパンを捧げるとビネガー(胃液)が出てくる=パンを食したとなるのです。
聖餐にはぶどう酒も必要ですが、この物語には出てきません。これでは聖餐は完了しないかと思われますが、カトリックの聖餐では病人にはパンのみ与えられることがあります。アルエットはペスト患者、即ち病人です。そのため、彼女はパンのみを食べたのです。
カトリックでは聖餐は重要な儀式に位置付けられており、日々の習慣になっている人も少なくありません。アルエットは教会に通っていた為、毎日あの十字架の前で聖餐をしていたのでしょう。地下礼拝堂がアルエットの故郷の教会だったのは、そういう背景があるからかもしれません。
聖餐を終えれば、四人の泥棒の酢を作ることができます。最後に残るのは誓いの言葉ですが、子羊の婚姻を快く思っていないサタンの妨害があるため、それに惑わされないように肝臓と脾臓を浄化して、アルエットは真実を手に入れます。



婚姻に招かれた者は何に名を記されるのか

ことばの典礼、聖餐を終えれば、次はいよいよ誓いの言葉です。神父の前で一生添い遂げることを誓えば、婚姻は成立します。
エンド1~3でラザールを送り出した(サタンの誘惑を退けた)アルエットは、旅立つ直前に神父の前で誓います。「貴方のお導きに、従います」と。
これで晴れて婚姻は成立し、子羊の婚姻に招かれた人々は最後の審判の後に神の国へと導かれるのです。
ところで、ヨハネの黙示録に「書きしるせ。小羊の婚姻に招かれた者は、さいわいである」という言葉があります。これはいのちの書のことを指しています。
いのちの書は神の国にいける人間の名が記される重要なものです。名前が載っていないものは最後の審判で火の海(死)に投げ込まれてしまうのです。
前回の記事で、この儀式はアルエットにとっての最後の審判と書いたのですが、正確には違いました。まだこの時点ではヨハネの黙示録でいう、千年王国が樹立したところです。復活の日はこれから千年先の復活したサタンを滅ぼした後に訪れます。思いっきり間違い書いてました、お恥ずかしい…。
子羊の婚礼は神への信仰を誓うこと。無事に花嫁となったアルエットはいのちの書に名が刻まれたため、最後の日では無事に神の国へ行くことができるでしょう。エンド2,3では罪の冠を授けられますが、まだ最後の審判は訪れません。深い信仰心を持ち、神の意に沿えば、彼女たちの罪は許されるでしょう。
これは私の希望的な推測なのですが、ラザールの名前もそこに記されているのではないかと思います。エンド1以外では彼は罪の冠を戴くことになりました。ですが、この儀式は子羊の婚姻です。サタンに唆されたとはいえ、彼も確かに子羊の婚姻にいたのです。そして、彼は茨の冠を受け取り、罪を背負って歩き続けることを決意します。
一度はサタンに支配されましたが、彼は再び信仰の道に戻りました。神は自分を信ずるものを救います。エンド2,3ではアルエットもラザールも罪を背負ったままですが、子羊の婚約は成されました。茨の冠を戴き、歩き続ければ罪は許されると神父も背を押していましたので、このまま主を信じていれば、きっと復活の日も笑顔で迎えられるのではないかと思います。



身廊が暗示するもの

身廊には聖書と円陣があります。聖書は黙示録を記し、ことばの典礼を終えれば地下への道を開くので置かれている理由がわかりますが、円陣は本編に関わってこない、極端なことを言えばなくても構わないものです。
では何故この円陣は描かれているのか。この円陣はシュルトル大聖堂の「エルサレムへの道」という迷路です。エルサレムにはイエスの磔刑が行われたゴルゴダの丘があります。この迷路を教徒が辿ることはイエスと同じ苦しみを追体験することを意味します。エルサレムは最後の審判の後に天より授けられる新しい都、神の国とされています。
そして、この円陣は位置的にへそを模しています。胎児はへそから送られる栄養素で育ち、誕生します。へそから与えられるものは胎児が生まれ出る世で欠かせないものです。エルサレムへの道は神の国に続く道。アルエットはこれから千年王国に生まれ、人生を送ります。彼女が今までと変わらず信仰を重んじ、イエスと同じ道を歩もうとするのなら神の国に至れる、それを決して忘れるなというメッセージではないでしょうか。
聖書はことばの典礼を行うためですが、これにも隠れたメッセージがあると思っています。
聖書を上下左右で線を繋ぐと、逆十字が現れます。逆十字は悪魔崇拝、または聖ペトロの十字を意味します。
悪魔崇拝は名前の通りサタンに惑わされ、神の教えに背いた人間です。身廊の先には内陣があり、そこにはペストに毒されたラザールがいます。この十字は神父が切ったものなので、「ラザールに気をつけろ」という神父の忠告も含まれているのではないでしょうか。
聖ペトロの十字は聖ペトロが磔刑を受ける時に、イエスと同じ状態で磔をされる価値は自分にはないと逆向きに磔を受けることを望んだことから生まれました。そのため、聖ペトロ十字は「謙虚」「キリストに比べて価値がない」ことの象徴です。アルエットはイエス・キリストの磔刑を成そうとしていますが、彼女は神の子のイエスとは違い、一教徒です。アルエットにはキリストに比べて価値はなく、犠牲になったとしても全人類の原罪を追うことはできない、ということなのではないかと思います。




アルエットとラザールが犯した罪

ここはアルエットの精神世界です。彼女が救えるのは彼女自身でしょう。
神父は彼女を助けるためにこの世界に来ましたし、村人たちはサタンが化けていただけです。
では、ラザールはどういった存在なのでしょうか。
アルエットはラザールを失って深く悲しんでいました。そして内陣での「だから会いたいの。本当のラザールに」や「ラザールならきっとそう言ってくれるよね。でも、それは私の勝手な想像。私の甘え」と言ってる台詞から見るに、もしかしたらあのラザールはアルエットが焦がれるあまりに作り出した幻想なのかもしれません。
しかし、それならば罪はアルエット一人だけになるはずです。ラザールは自分にも罪があると言っています。
私はあのラザールは幻想ではなく、本物だと思っています。生前、ラザールとアルエットは結婚の約束…とまではいかなくとも、思いが通じ合っていました。親を説得し、ともに街で暮らすことが夢でした。ラザールが倒れたのはアルエットに指輪を渡した直後です。彼はアルエットの返事を聞けぬまま、帰らぬ人となりました。
アルエットがラザールの死を悲しんだように、ラザールもまたアルエットと離れてしまったことを嘆いたはずです。彼女と結ばれることを強く望んだでしょう。
アルエットはペストで長くは生きられない身で、死に近い生者でした。そのため、ラザールは彼女の精神世界に現れることができたのでしょう。アルエットもラザールの側にいることを願った(現実から目を背けた)ため、できたことかもしれません。
ラザールはアルエットを連れて行こうとし、アルエットもそれを受け入れようと思っていました。
アルエットがラザールの手を取ることは自殺であり、キリスト教徒の彼女には重罪になります。そして、彼女を誘惑するラザールの罪も重いものとなります。ラザールはサタンの誘惑に一度負けているので、二重の罪があるのです。



舞台となった教会

マップはアルエットの人体を模していますが、フランスに現存する「シャルトル大聖堂」もモチーフになっています。
身廊のエルサレムへの道はシャルトル大聖堂にありますし、梯子にはシャルトル・ブルーという青が特徴的なステンドグラスがありますし、他のステンドグラスもシャルトル大聖堂に飾られているものに似ています。また、シャルトル大聖堂は12世紀に西側が大火事で消失しています。アルエットの燃えていた眼孔が西側にあるのも、そのためなのかもしれません。
後陣に飾られているピエタ像の首がないのも、もしかしたら聖母マリアのサンクタ・カミシアを現しているのかもしれません。サンクタ・カミシアはシャルトル大聖堂に飾ってある聖遺物で、聖母マリアがイエスを産んだときに来ていた衣です。聖遺物はイエスやマリア、聖人の遺品や遺骸を指し、奇跡を起こすとして崇拝されてきました。
聖遺物を現す聖母と首なしの像は奇跡を起こしてくれます。茨の冠が彼女たちの像に飾られてあったのもそれが理由でしょう。
また、ラザールが商売に行っていた街はおそらく、シャルトル大聖堂があるシャルトルだと思われます。シャルトルは巡礼者が多く栄えていましたし、1348年にはペストが大流行しています。ラザールはこの時感染してしまったのでしょう。
もしラザールの行っていた街がシャルトルなら、アルエットが一度見てみたいと言っていた大聖堂はシャルトル大聖堂でしょう。ラザールはアルエットを街に連れて行こうとしていたので、シャルトル大聖堂で結婚式を挙げようと思っていたのかもしれません。あの世界の大聖堂はそうした気持ちが反映されてできたのかもしれません。
そう考えると、デッドエンドではありますが、生前の夢を叶えられたエンド4は幸せなのかもしれません。



ラザールの行きつく先はどこなのか
聖書は人は死ねば意識はなく、最後の審判で地上に蘇るまではずっと眠ったような状態だと説いています。しかし2世紀以降から、人は死後にも意識があり、行いや信仰によって、天国、煉獄、地獄へと送られるという煉獄説が広まっていました。
天国は良い行いをした人々が、地獄は悪しき人々が行きつくところです。煉獄説ではこの二つに導かれた人々は最後の審判を受けず、永劫そこにいます。煉獄は天国に行くほどでもない人々が招かれます。最後の審判で呼ばれるのは煉獄に落ちた人々だけです。(辺獄というのもありますが、カトリック教では公式には認めていないので、ここでは省きます)
煉獄では自分の罪を贖うため、浄化の炎で身を焼かれます。天国に行けるようになるまで苦痛を味わいつづけます。しかし地上の人間が彼らのために祈るのであれば、彼らの罪は軽くなり、早く天国へ行けるようになるのです。反対に魂を焼かれる煉獄の人間はその苦行から、地上の人間への願いを叶えてもらうことができます。
茨の冠を渡した時の会話で出てくる「この冠をかぶって、歩き続けて。それで、ようやく赦されるの」「純粋な苦しみをバネに立ちあがりなさい」は煉獄で受ける浄化の火を指しているのでしょう。
生者が死者への祈りを捧げれば罪は軽くなりますので、エンド3のラザールは比較的早く天国へ行けそうです。




身廊での十字とアルエットが目覚めた時の十字の違い
身廊での十字は現実世界の神父がアルエットの回復を願って切ったものですが、アルエットが目覚めた時の神父の十字を切っている立ち絵は、身廊の十字と左右が逆です。
身廊の十字と目覚めたアルエットに書いた十字を描いたのは、間違いなく神父です。なぜなら、神父のモデルである聖ロッシュは伝染病の守護者で、患者が回復することを願って十字を切っていたからです。
身廊と神父の立ち絵の十字が左右逆なのは何故でしょうか。
それは身廊の十字が「祈り」で、立ち絵の十字が「祝福」だからです。
聖ロッシュは14世紀の頃の人で、当時のキリスト教は正教会とカトリックの2つの教派がありました。(プロテスタントは16世紀に誕生)
十字には教徒が神への祈りとして行うものと、神父が教徒へ祝福として捧げるものがあります。
どちらの教派も祈りと祝福は左右が逆になっています。
正教会もカトリックも祈りの十字は上下右左。これは身廊に描かれていた十字と一致します。あの時のアルエットはエンド4や5に行ってしまう可能性もあり、復活できないおそれがありました。そのため、神父は彼女の無事を願い、祈りの十字を書いたのです。
立ち絵の十字は上下左右になっています。これは祈りとは逆、つまり祝福の十字になります。神父は無事に復活することができたアルエットを祝福していたのです。
聖ロッシュの教派であるカトリックは14世紀頃に祈りの十字の順番が逆になりました。聖ロッシュは1295年~1327年の人なので、もしかしたら途中で 十字の順が変わっていた可能性もありますが、13世紀のカトリックは正教会と同じ順でしたし、この時はまだ変わっていなかったのではないかと思います。
神父のモデルの聖ロッシュは病人の上で十字を切ることで有名ですし、神父もおそらく同じようにアルエットの上で祈りの十字を切っていると思います。違っていると身廊の十字の順が変わってしまうと思うので、同じ可能性が高いでしょう。




プレイヤーの正体
もう気づいている方もいるかもしれませんが、プレイヤーは創造主ではありません。
これは子羊の婚姻譚。主人公はアルエットですが、彼女の行動を決定しているのはプレイヤーです。子羊の婚姻はイエス・キリストが婚姻によって人を救う話です。花嫁アルエットが誓いの言葉を告げた相手はプレイヤー。つまり、プレイヤー=イエス・キリストなのです。
アルエットはプレイヤーを「主」と呼んでいます。旧約聖書では主は創造主のみを指しますが、新約聖書では創造主(父たる神)とイエス(子たる神)と聖霊の三つの位格を指します。これは三位一体と呼ばれる考え方で、神=創造主、神=イエス、神=聖霊ではありますが、創造主=イエス=聖霊ではありません。なので、イエス・キリストであるプレイヤーを主と呼んでも不思議ではありません。
この物語はアルエットの復活の儀式でもあり、イエスの千年王国樹立の物語でもあるのです。
アルエットは基本的に「主」という呼び方をしていますが、一部「父」や「神」を使うことがあります。「父」は冒頭のエリ・エリ・レマ・サバクタニで使っているのみで、それ以降でてきません。逆に「神」は船着き場やエンドなど終盤の方にでてきます。
彼女の中では、主=プレイヤー(イエス)、父=創造主、神=三つの位格全て、と使い分けているのだと思います。そう考えると、冒頭の嘆きは父たる神に向けられています。その嘆きを受け、子たる神イエスが彼女を救いに行ったのです。
アルエットは自分を助けに来たのがイエスだと理解していたのでしょう。そしてこの儀式が子羊の婚姻であることにも。
婚姻が成せば千年王国に住むことが出来ます。ですが、これは一時的な安寧です。永遠に続くものではなく、終わりが来てしまいます。永遠を約束されているのは千年王国がほろんだ後に作られる神の国です。神の国へ導かれるには神への信仰が不可欠。そのため、無事に復活できたエンド1~3は自分の道を信じて進むのです。
エンド1などで出る「神」は導いたプレイヤーだけでなく、彼を遣わした父、そして聖霊にも感謝を述べています。
エリ・エリ・レマ・サバクタニはエンド5にもありますが、ここで出てくるのは「主」です。
このエンドは彼女が救いを拒むことによって終わりますので、彼女の意志のように見えますが、そこまでアルエットの正気を削ったのはプレイヤーです。アルエットはペストによって大切な人が亡くなったり自身の身体が蝕まれていたりすることよりも、プレイヤーの仕打ちに絶望したのです。
これは子羊の婚姻です。信心が強ければ婚姻に至り、いのちの書に名が刻まれます。アルエットは元々敬虔なキリスト教徒です。多少の試練であれば耐えられたでしょう。ですが、プレイヤーは、導きを信じて進む彼女の正気を何度も削ります。
死別は辛いですし、自身が死ぬのも怖いでしょう。しかし信仰を強く保ち続ければ、神の国に招かれます。それがあるからこそ、彼女は多少の恐怖にも耐えて探索をしていました。ですが、その信仰心を否定されたのです。敬虔なクリスチャンにとって、信仰心は自分の人格そのもの。それを神たるプレイヤーに認められなかったのは、敬虔な彼女にとってどれほどの絶望だったのでしょう。
だから、エンド5は父でも神でもなく、プレイヤーに問うているのです。どうして、と。



聖ラザロとイエスキリスト
ラザールのモデル、聖ラザロはイエスと友人でした。ラザロが病気になり、彼の家族は助けてくれるように手紙を出しましたが、イエスは何もしませんでした。そして、彼が亡くなった後に墓に訪れ、「ラザロよ、出て来なさい」の一言で彼を復活させました。この奇跡がきっかけで、人々はイエスを信じるようになりました。
ラザールの結末は哀しいものですが、このラザロとイエスの逸話をこの物語に当てはめると、希望が持てるかもしれません。ラザールはエンド4、5を除き、茨の冠もしくは月桂樹を渡され、アルエットから離れ、自分の道を行くことを決意します。
実際に渡したのはアルエットですが、それを命じたのはプレイヤー。プレイヤーはイエス・キリストです。茨の冠や月桂樹にはイエスの「ここから出て来なさい」というメッセージが込められています。(プレイヤーは大聖堂にはおらず、外から光でアルエットを導いているので、「出て行きなさい」ではなく「出て来なさい」になります)
復活の言葉をかけられたラザロは、すぐには無理でもいつか再び復活することができるのではないでしょうか。


マップやラザールの墓の位置などに関することはこちら

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かもかて、ダンマカの二次創作サイト。
恋愛友情憎悪殺害ごっちゃにしておいています。

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