ふう、と長い息を一つ吐いて、その男は呼吸を止めた。
神父は男の腕をとり、脈を計る。反応はない。黒くくすんだ皮膚に残る、僅かな体温が彼が先ほどまで生きていたことを証明するが、それも時期に消えていくだろう。
これで、十三人目だ。神父の治療の甲斐もなく、死んでしまったのは。
老若男女、様々な人間がいたが、誰一人奇跡を起こすことはできなかった。
ある者は苦痛から逃れるために死を願い。ある者は家族の後が追えると喜び。
皆、神に救いを求めることすらしなかった。
いくら神父とて、そんな人間を助けることはできない。神父の奇跡は神の加護と患者の強い意志があってこそ起こりうるもの。神は救いを求めるものにのみ、その御手を差し伸べるのだ。
この男は神を呪いながら息を引き取った。己に課せられた試練の意味もわからず、神に深い憎悪を抱いた彼は、果たして御許に導かれるのだろうか。
たとえ神を恨んだことがある人間でも、再び神を信ずれば必ず救いは与えられる。浄化の炎で焼かれていくうちに男が正気を取り戻し、信仰を取り戻す日がくれば、きっと。
そんな日が来ることを願いながら、神父は十字を切った。
***
高く上った陽はここ数日降り続いた雨の憂鬱さを晴らしてくれるように、からりとして暖かい。
つやつやと光る木々の葉に、空を飛びかう小鳥のさえずる声。
なんと平和な一日だろうか。
だが、その朗らかな光景の下に広がっているのは、あまりに凄惨なものだった。
死を体現した世界。一言で言えば、それだった。
ペストが蔓延したこの村では、人も物も全てが閉ざされる。残された人間は外に出ることは許されず、病魔に侵された村にわざわざ物資を運ぶ人間もいないからだ。
彼らの命を繋ぐのは、備蓄と庭で育てた僅かばかりの食糧のみ。もっと大規模に畑を耕そうにも、病人とそれを看る家族だけでは十分な食料を作ることは困難だ。
この村に残された人々はペストに罹った人間がどういう末路を辿るのか、よく知っている。安寧とは程遠い、苦しみもがく姿。自分の来たるべき未来をまざまざと見せつけられるのは、どれほどの恐怖なのだろうか。
体力と精神。その両面からじわじわと追い詰められるのだ。気が狂ってしまうとしても無理もない話だろう。
神父がこの村に来てから二週間ほど経つが、実際にそんな事件を目撃したことがある。家族の死により精神に異常をきたした者が、村人を殺めようとしたのだ。
どうにかそれは阻止することができたが、神父の知らぬところで無理心中を図った人間は複数いた。
ペストで亡くなった村人も多いが、こうして自らの運命を悲観した人間が周りを巻き込んで死を選んだ人間も少なくはなかった。
そして今朝、男が一人死んだ。もうこの村にはあと一人しか残っていない。迷える人々を救うためにこの村に来たのだが、結局は誰一人救えなかった。
せめて、彼女だけは――。
「わん!」
ふいに後ろを歩いていた犬が駆け出した。行く先を見やれば、一人の少女が教会の前に佇んでいた。
「……あ。どう、だった?」
犬を撫でながら神父を見上げる少女の表情は暗い。
首を振ると、少女は目を伏せ、そうと呟いた。
「ご遺体は……」
「庭」
あの男は生前そう望んだ。縁の薄い教会よりも、生まれ育った家で眠りたいと。
「……これで、もうこの村には私たちしかいないんだね」
少女の瞳が映す人気のない寂れた村。ここはかつて人々の笑い声に溢れた賑やかな村だったらしい。故郷の変貌ぶりに、彼女は何を思っているのだろうか。
「……中に」
そう促せば、彼女は頷いて教会の扉を開けた。
***
村の規模に合わせて作られた教会は広くはない。半狂乱になった人間が暴れたこともあるため、穴が開いている個所もある。だが、毎日清掃しているので、空気は村の中で一番澄んでいて清浄だ。
この村で最も神に近い為か、先程より少女の顔の強張りが若干和らいだ気がする。
少女はいつものように神への祈りと聖餐を行う。
村人の殆どは神父の外見を気味悪がり、教会へ近づくことすらなかったのだが、この少女だけは毎日こうして教会へと通っている。
敬虔な少女と過ごすのは、神父にとって心地よい時間だった。
この村の人間は大抵己の運命に絶望し、神の存在を忘れたかのように死に憑りつかれていた。神父の言葉も、彼らには届かなかった。
神父の使命は彼らを正しき道に戻すこと。しかし、今まで見送った村人を救うことはできなかった。
けれど、彼女なら。信仰心を失わず、神に祈りを捧げる彼女なら、きっと奇跡を起こすことができるだろう。
ただ、一つ懸念があった。
少女とこうして一日中一緒に過ごすようになって二週間ほど経つが、彼女が笑ったところを一度も見たことがないのだ。
会話や意志の疎通は通常通り行えるので、彼女が笑わずとも支障はない。しかし、神父はそれが気がかりでならなかった。
今、少女は犬と戯れている。その顔は先ほどよりも明るくなったとはいえ、相変わらず笑みはない。
窓に目を転じると、荒れた村と楽しげに飛び交う小鳥の姿が見えた。見慣れた光景。けれど、いつかはこの村と別れる日も来るだろう。
彼女は今の所健康だ。しかし、それも時間の問題。そう遠くない未来に、彼女にもその日が訪れる。
結果は彼女次第だが、それを乗り切れば神父がここに居る意味はなくなる。新たな土地へ旅立たねばならない。少女と過ごせるのもそう長くはない。
その前に、彼女の笑顔を見ることはできるのだろうか。
「あ、そういえば」
寝転がる犬の腹を撫でていた少女は、ふとその手を止めてこちらを見上げた。
「この子の名前、なんていうの?」
問われても、答えは出なかった。
その犬は神父がペストを患った時から、ずっと側にいた。どこへ行くにもついてきて、決して離れようとはしなかった。
犬は嫌いではない。だから、追い払うことはせず旅の友としていたのだが、飼っているつもりもなかったので、名前をつけていなかった。
少女は男の言葉を待っている。名前はないとは言い難い。
「………………犬」
仕方なく、いつも呼んでいる名を口にする。
少女はきょとんとした顔で小首をかしげた。
「名前、つけてないの?」
頷くと、彼女はじゃあ今つけようと様々な名前で犬に呼びかける。
だが、犬はなかなか良い反応を示さない。
頭を振り絞って名を考えている少女。犬は何か言いたげにこちらを見ている。
「……犬」
小さく名を口にすると、待ってましたと言わんばかりに、犬は元気よく声をあげた。
「やだ、すっかり覚えちゃってるじゃない」
ぱたぱたと嬉しそうに尻尾を振る犬の背を撫でながら、少女はため息をつく。
そして。
「もう、しょうがないなあ」
呆れたように、楽しそうに、笑みを浮かべた。
「………………」
「じゃあ、この子はもう犬だね。そのまんまだけど、本人も気に入ってるみたいだし」
「わん!」
「これからもよろしくね、犬」
遊びを再開した少女と犬から目を逸らし、外を見る。荒廃した村は何ら変わりがないのに、天から射しいる光のせいか、先程よりも清浄に感じられた。
「あっ!」
突然の叫び声。
驚いて声の主を見やれば、彼女は真っ青な顔をしている。
まさか、もう症状が出始めているのだろうか?
焦った神父の耳に届いたのは、予想と反したものだった。
「私……もっと大切なこと聞いてない。貴方の名前」
神父はその言葉に脱力したが、彼女にとっては重大なことなのだろう。
「失礼なことをして、ごめんなさい。……あの、お名前は?」
一度は安堵した体が再び強張る。
神父にはそれ個人を示す名が、確かにある。だが、この名前は本人以外誰も知らない。神父は神の忠実たる僕だが、主たる神にすら秘しているのだ。
それほど、神父にとって名は護るべき重要なもの。
だから、すぐに答えを返すことができなかった。
神父の沈黙を拒絶ととったのだろう。少女は諦めたように目を伏せた。
「教えたくないのなら、それでいいのだけれど……」
その顔は何度も見てきた。憂いを帯びた表情は彼女には似合わない。
似合うのは――そう、先程のような明るい笑顔だ。
犬の名前で彼女は笑った。ならば、同じように神父の名を告げれば、笑ってくれるのだろうか。
「………………ロッシュ」
気が付けば、口から零れていた。小さな声だったため、少女には届かなかったのかもしれない。
そう思い、少女の方を見ると――目を丸くした彼女と視線がぶつかった。
「ロッシュ……?」
頷くと、彼女の顔がぱあと輝いた。
「ロッシュ……ロッシュね!」
嬉しそうに何度も神父の名を呟く少女。
神父は戸惑った。彼女の反応にではなく、そんな彼女を見て己の内に広がる感情に。
「あ、私はアルエット。アルエットっていうの。これからもよろしくね、ロッシュ!」
かけてきた少女は笑顔でこちらに手を差し出す。マスクをつけているため、彼女の様に笑顔を返すことはできなかったが、神父はその手を握り、頷いた。
彼女にだけはなんとしてでも奇跡を起こしてみせよう。あの笑顔がいつまでも曇らぬように。
そう、決意を込めて。
かもかて、ダンマカの二次創作サイト。
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