「……この子は、助かるんですか?」
まだ五つもいかないであろう幼子を診ていた時、その子の母親がぽつりと尋ねた。
落ちくぼんだ目は私たちを捕えておらず、どこか遠い場所を見ている。
ペスト患者、およびその家族の中には疲労困憊で精神の安定を崩す人もいる。おそらくこの人もそうなのだろう。
見習いの私はロッシュの指示を仰ごうと彼を見上げた。
その視線に気づいたのか、彼は無言で私を見返したが、言葉を発する事はなかった。
「…………」
ただ、静かに患者の上で十字を描いた。
ペスト医師ができることはそれほど多くはない。瀉血や四人の泥棒の酢などの治療法はあるけれど、最後は患者の精神力と主の加護に帰結する。
だから、どうか彼女を救ってくれるように。彼女が主へ救いを求めるように。
そう祈りを捧げたのだ。
「……信仰が、何の役に立つのでしょうか」
重い、言葉だった。
主は確かにペストに侵された私を助けて下さった。そして、この道へと導いて下さった。
けれど、今まで看てきた人々の中には御手が差し伸べられることなく、命を落とした者もいる。
助かった人々と彼らの違いは何かと言えば、信仰を保ち続けていたか否か。
だから、今まで患者や家族には祈りを捧げることを忘れないように言い続けた。
この母娘もそう。治療を施した後、必ず説法をしていた。
初めは二人とも真剣に聞いてくれたけれど、娘さんの症状が重くなっていく内に、彼らの信仰心も薄れていった。
何度も見続けた光景。何度も抱き続けた失望。それでも、私たちは最後まで信じつづけるしかない。祈りを捧げ続けることで、奇跡は起こるのだから。
「今日、万聖節……ですよね」
「……ええ」
「毎年、祈っていたんですよ。聖人たちに。どうか、この子が無事であるように。……でも、結果はこのありさま。誰が助けてくれるっていうんです? この子はこんなに苦しんでいるのに。神はなぜこのような試練を与えるのです?」
何も言えなかった。
静かに語る彼女のその目から零れ落ちる涙が、私の胸に突き刺さった。
「ああ。今日は神ではなく、聖人様に祈る日でしたね。では、貴方たちのいうように、もう一度祈りを捧げましょうか。この子はペストだから……聖人ロッシュがいいですね」
馴染みのある名前。
彼女にばれぬように視線だけ動かして彼を見るが、反応した様子はない。
「彼は伝染病の守護聖人ですものね。きっと祈ればこの子の病気もたちどころに治してくれるんでしょう」
自暴自棄になった彼女はその場で跪き、祈りの聖句を唱え始めた。
最初は淡々とした祈りの声だったが、やがてそれに嗚咽が混じりはじめる。とうとう言葉を紡ぐことができなくなり、彼女はその場に蹲った。
「なんで……っ、なんで、助けてくれないんですか!? ロッシュはペストを治してくれるんでしょう!? どうして……っ!」
背後から私の肩を叩いたロッシュはジェスチャーで彼女を休ませるように指示した。
私は頷いて、彼女をそっと抱き起す。抵抗する様子はなく、彼女は素直に私に従った。
***
この村での拠点となっている教会にたどり着いた私たちは、一日働き通しだった体をひとまず休ませることにした。
私が入れたハーブティーを神父は無言で受け取った。でもそれを飲むことはせず、目の前のテーブルに置いただけだった。
彼は私の前で飲食をとることは殆どない。ペストマスクを外さないから、素顔を見たこともない。
一度だけ外してほしいとお願いしたことがあるけれど、それだけは嫌だと拒否された。だから、なるべく気にしないようにはしている。
彼の足もとでは犬がいつものように丸くなって眠っている。今日は色んなところを渡り歩いたので疲れたのかもしれない。
私は自分で入れたハーブティーを一口飲んだ。爽やかな香りが口の中に広がって、一日の疲れがとれるような気がした。
「おいしいよ。ロッシュも飲めばいいのに」
そう勧めてみるが、首を横に振られた。
両手でティーカップを包み込み、微かに緑色に染まった液体をぼんやりと眺める。
「……ロッシュは、さ」
目の端で、彼がこちらを向くのが見えた。
言おうと思っていた言葉が上手く形にならず、私は開いた口を閉じた。
(今までも、こういうことってあったのかな)
思い起こすのは、今朝の母娘のこと。
母親は何故ロッシュは助けてくれないのかと嘆いた。その悲痛の叫びは聞いているものの胸を深くえぐる響きを持っていた。
今まで気にしたことはなかったが、ロッシュの名前は守護聖人ロッシュと同じもの。しかも、彼の聖人と同じペスト医師ともなれば、混同する人間も出てくるだろう。
もしそれを知れば、届かぬものへの嘆きは、目の前の他人への怒りに変わるかもしれない。
(だから、名前を教えるの嫌だったのかな?)
名前を聞いた時、私の身体はまだペストに蝕まれていた。あの時の病状はそれほどひどくなかったけど、ペストはほぼすべての患者が急速に悪化する。私も現にその後生死の淵をさ迷うほど悪化した。
(私の時は無理やりな形で聞いてしまったけど、本当は嫌だったのかもしれない)
気持ちが落ち込んでいくのがわかった。
ロッシュという名は二人きりの時にしか使わないけど、聞きだした経緯が経緯だし、いつ誰に聞かれるともわからない。なるべく医師か神父と呼んだ方がいいのだろうか。
「ねえ、貴方は――」
「……名は、明かす必要がないからだ」
意気込んで紡ぎだした言葉は、すぐに彼に遮られた。
「ペスト患者がいなくなれば、また次の地へ行く。そのため、名前を告げる意味はない。それに……この名、ロッシュは混同されやすい」
「守護聖人に?」
「違う。聖ロッシュの名を騙る、偽者に。偽者に間違えられれば、治療を行うことも困難になる。だから、私は名前を明かさない」
聖人の名を騙る人間がいるということにも驚いたが、彼がこれほど饒舌に喋るのを見たのも初めてだったので、どちらかというとそちらの方に気を取られた。
「……そうなの」
たくさん話したせいか、彼は口を開かず、いつものように頷いた。
「そう……そうなんだ」
繋がりが切れるから、名前を明かさなかった。なら、私に教えてくれたのは、治療を終えた後でも関わってもいいと思ったから?
(そうだと、嬉しいな)
先ほどまでの憂鬱な気持ちはなくなり、元気が出て来た。
(ああ、そうだ。これが大事なんだ)
心は体に大きく影響する。暗い気持ちのままでいれば、やがては体もやられてしまう。
前を向いて明るく未来を信じることを、主は私に教えてくださった。なのに、最近は忙しさと救えなかった人々への罪悪感で、それを忘れかけていたのかもしれない。
どんな試練も主は私たちを救うために与えてくださる。それを決して忘れてはいけない。
「……ねえ、ロッシュ。明日、一番にあの母娘のところへ行こう」
「わかった」
彼はその理由を聞かなかった。
きっと彼の事だから、わかっているのかもしれない。
「あの子は助かるよ。だって、主とロッシュがついていてくれてるから」
笑顔で私は言った。
大丈夫。たとえあの子が絶望をしていたとしても。私たちが希望を与え続ける。
意識はなくとも、その想いは必ず彼女に届く。だって、私がそれで助けられたのだから。
「……そうか」
表情のないはずのペストマスクが、少しだけ笑んだ気がした。
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