暗闇の中に、ぽっかりと白い月が浮かんでいる。
今月は白の月。舞踏会が開かれているため、今夜の城はどこか浮足立っている。
六代の補佐を務めているレハトは、華やかな舞踏会に足を運ばずに、一人静かに月を眺めていた。
露台に立ち、ヴァイルにもらった故郷の酒を仰いでいると、ふいに過去の出来事が思い起こされる。
あの夜もこうして月を見上げて己の選択に後悔していた。なんども時を戻したいと泣きながら、戻らぬ日々に想いを馳せた。
さすがに五年も経てば涙を流すことはないが、胸に去来する悲しみは未だ慣れない。慣れたいとも思わないが。
戯れに、月に手を伸ばす。
掴めるはずのないそれは変わらずに輝き続ける。
月が欲しいと泣く子ども。自分はそれと変わらないと苦笑をこぼす。
王にはなれずとも、それに次ぐ地位を得ることができた。最初は反発していた貴族どもも、その実力を認め従うようになってきた。
順風満帆の人生。欲しいものはなんでも手に入る生活。けれど、レハトが欲したのは決して戻らぬ過去の人。
伸ばされた手は女性特有の細さと丸みを持っている。本来は男のものになるはずだった。彼女は男を選んだのだ。
けれど、篭りを終えて出て来た彼女は女性の体に変化していた。
選択の儀で宣言した性別通りに分化しない人間もまれにいる。彼女もその稀有な例の一つだった。
周りの者は彼女の分化を「第二の寵愛者だから」と決めつけた。イレギュラーな存在なのだから、分化もまたイレギュラーの道を辿ったのだろうと。
それに反論はしなかった。可能性は捨てきれない。
だが、彼女にはわかっていた。自分が女に分化したのは、恋心を捨てきれなかったからだと。
今年二十となるレハトは未だ独身だった。婚約の申し込みは日に何通も届くが、一度も応えたことはない。
同じく寵愛者であるヴァイルも結婚していないため、ふたりはそのうち婚約するのではないかと危惧する声も多かった。
それは根も葉もない噂でしかないのだが、どちらも異性の影がない以上、疑われても仕方がないことなのかもしれない。
たまにヴァイルとの会話でも結婚の話があがるが、どちらも結婚する気など欠片もなかった。
レハトは誰であろうと結婚する気はない。一生独り身で生きていくのだと五年前のあの日に決めていた。
沈思していたレハトの耳に、ふいにがさりという音が届いた。
「誰?」
茂みに声をかける。返事はなく、もしかしたら猫だろうかと思った彼女の前に、静かに歩み出る影があった。
息が止まるかと思った。
その姿はこの五年間、彼女が焦がれて止まないものだった。
「タナッ……セ…………?」
名を呼ぶと、彼は怪訝そうにこちらを見上げた。
「覚えてないの?」
そこで気がつく。そうだ、彼はレハトが男に分化したと思っている。城の外ではレハトのことは知られていない。ヴァイルたちとも一切連絡をとらなくなったと聞いた。
女になってしまったレハトなど、彼は知らないのだ。
「……私の名を知っているということは、以前城で会ったことがある方だろうか。失礼だが、どなただろうか。記憶には自信があったのだが、思い出せないのだ」
名乗ろうかと一瞬迷った。ここで名を明かして自分の裏切りを誤まってしまいたかった。
もしかしたら、以前のような仲になれるかもしれない。
そんな自分のあさましい願望に気がついて、彼女は言葉に詰まった。
ただ本当に愛されているか知りたいという自分勝手な理由で、彼の心をずたずたに引き裂いたのだ。今さら許してもらえるはずないだろう。
自分が女になったとしれば、タナッセはどんな反応を返すだろうか。
驚くだろうか。自分から振った癖に未練がましく想いつづけるレハトを蔑むだろうか。
「もしかして、レハトに聞いたのか?」
沈黙したレハトを気遣ったのか、彼が口を開いた。
「ここは……五年前と変わっていなければ、レハトという貴族の部屋だ。貴女はもしかしたらその者の妻なのか?」
「え……あ、はい。そうです。私は……レハト、の配偶者です」
つい、嘘をついてしまった。
タナッセは納得がいったというように頷いた。
「レハトに会いにきたのだが、彼は今いるだろうか?」
「彼は……しばらく出張で出払っていますの」
「そうか……」
落胆したのが、遠目でもよくわかった。
彼はレハトに何か直接伝えたいことでもあったのだろうか。ここでレハトが名乗らぬ以上、それは叶えられないのだが。
「あの、私で良ければ言付けを承りますが」
わざわざここまで来たのだ、よっぽど大事なようなのだろう。それを初心者の自分に告げるとは思えなかったが、レハトはそう提案した。
意外にも彼はそれに乗った。
彼を部屋に招き入れて、給仕の支度をする。
タナッセはそこまでしてもらう必要はないと断ったのだが、人を招く以上、何も出さないというわけにはいかない。
レハトは昼間のみ侍従をつけていたので、この時間帯では自分で動くしかない。
貴族である彼女に茶をいれてもらうのをタナッセは渋ったが、対してレハトは内心喜んでいた。
タナッセとともに呑めたらと思いながら一人で茶を飲んでいたのだ。それが叶ったのが、とても嬉しかった。
「……貴女は茶を淹れるのが上手いな」
一口カップに口をつけて、タナッセは笑った。
その笑みにレハトは見惚れた。元々造詣の美しい人ではあったが、窓から差しこむ月光と穏やかな笑みがその美麗さを一層際立たせた。
胸がちくりと痛んだ。
以前の彼は初対面の親しくもない相手にこのように笑う人ではなかった。この五年の間に丸くなったのだろう。その変化は時の流れによるものなのか、それとも誰かの影響なのか。
そんなことを言える立場ではないというのに、自分の知らない彼がいるということが、悲しかった。
「レハトは元気でやっているか?」
「……ええ。ヴァイル様の温情のおかげもあって、この城で毎日穏やかに過ごしています」
「あいつはなかなかそそっかしかったが、今でも変わりはないのか?」
「どうでしょうか……。本人はしっかりしたと思っていますが、たまにミスをすることもあるみたいですね」
そうかと笑みを浮かべて、タナッセは外に目をやった。
涼やかな風が部屋に吹き込む。さわさわと葉が揺れる音。静寂が部屋の中にも伝い、しばし二人は無言で外を眺めていた。
「……タナッセ様は、どうして今日ここに?」
じっと眺めていた横顔が動く気配を感じ、取り繕うように疑問を口にする。
彼は微かに困ったように笑みを浮かべた。
「そのことだが。その前に聞きたい。貴女は私とレハトのことをどこまで知っているだろうか」
「どこまで、とは」
「……知らないようだな。隠していては私が今日来た理由も話せない」
少し長くなるが、と前置きして彼は語った。
元々はレハトとは仲が悪かったこと。嫉妬ゆえに禁術によりレハトを殺しかけたこと。それから恋仲になったこと。
「……その話を、私にしていいのですか?」
不思議そうに彼は目を瞬かせた。
「レハト様は当時、継承者候補だったのでしょう? そんな彼を害したとはっきり言ってしまわれては、貴女の立場も危うくなるのでは?」
出自もはっきりとしない人間に話せるようなことではない。彼はここまで不注意な人間ではなかったはずだ。
タナッセは瞬きもせずにレハトを見つめた後、相好を崩した。
「……そうだな。初対面のご婦人に話すようなことではなかった」
「そういうことではなく……」
「ああ、わかっている。罪を告白しているようなものだからな。だが、もう既に代は変わった。当時の王は私を無罪だと判断したのだ、今更それが覆りはしないだろう。……罪に問われたとしても、むしろ私は歓迎だ。己の罪を償えるのだからな」
それに、とタナッセは続ける。
「何故だか、貴女には話してもいいと思えた。……いや、貴女には話したいと思ったのだ。私のしでかしたことも、想いも」
青い瞳がこちらを見据える。何もかもが見透かされているような気がして、心臓が跳ねた。
「……レハトと私が恋仲になったことまでは語ったな。レハトが成人したら、私は彼と共に城近くの領地に住もうと思っていた。だが、選択の儀でレハトは男を選んだ。……私が結婚を申し込んで、半日も経たぬ内に」
何度も胸を貫いた後悔が顔を覗かせる。
彼にわからぬよう、机の下で拳を握りしめた。
「それが、レハトの答えだったのだろう。……当然だな。あれほど酷い行いをしておいて、幸せになれると思い込んでいた私がどうかしていたのだ。あれは正しい選択をした」
「……タナッセ様は、恨んでおられないのですか?」
その瞳には負の感情が一切なかった。懐かしい、幸せに満ちた想いでを語るように、穏やかだった。
「あれが恨むことはあれど、私が恨むことはない」
「っでも! あの人はあなたの心を弄んだんですよ!? 結婚の約束までしておいて! いくら殺されかけたからって、あなたを傷つけていい理由にはならない!!」
がしゃん、と音が響いた。倒れたカップがテーブルクロスを濡らしていく。
レハトは慌ててカップを戻したが、その際に菓子を入れた籠を倒してしまった。
「ふ……はは」
布巾で零れた茶を拭いながら、タナッセがこらえきれずに笑いをこぼす。
「貴方も、なかなかそそっかしい人なのだな」
羞恥に赤らむ顔を隠すようにレハトは俯き、片付けに没頭した。
「……お恥ずかしいところお見せして、申し訳ございません」
新しく茶を継ぎながら、レハトは謝罪した。
タナッセは気にするなというように手をふり、微笑んだ。
「楽しい茶会になってなによりだ。良い思い出になる」
ふっと一瞬瞳を伏せ、レハトを見た。
「それにしても……貴女は随分私の心情を慮ってくれるのだな。傍から見れば、私は非難はされども擁護されるような立場ではないのに」
「それは……」
「レハトから、何か聞いているのか?」
タナッセの目には期待の色があった。
レハトは逡巡したが、大きく深呼吸を一度して口を開いた。
「……レハト様は男を選んだことを後悔していました。この五年間、あなたのことを思い出さなかった日はないと。できることならばあの日に戻って、女を選択したいと毎夜嘆いておられました」
月を見上げる。アネキウスはレハトが悔いていたのを知っている。
彼はそんな彼女の姿をどう思っていたのだろうか。きっと滑稽に思ったに違いない。
「……今も、嘆いているのか?」
「そう……ですね。今も、後悔していると思いますよ。あなた以外の者と結婚する気はないと、生涯独身を貫くおつもりです」
「生涯独身?」
タナッセは復唱して首をひねる。
「先ほどは流れで妻だといってしまいましたが、私はレハト様の配偶者ではありません。ただの、親類のものです。……嘘をついて、申し訳ございません」
「……そうか。レハトは結婚していなかったのだな」
そう呟く顔には安堵と罪悪感が混ざっていた。
タナッセは思案するように顎に手を当てた。しばしそうしたあと、決意したようにひとつゆっくりと瞬きをした後、レハトを見た。
「本題に入ろう。ご婦人、私が今日ここにきたのは、レハトにこれを渡したかったからだ」
彼が差し出した掌には小さな銀の指輪が乗せられている。
「魔術師が施した術はレハトの生命力を私に移すものだったと説明したな。この指輪は私が奪ったレハトの生命力が込められている」
手に取ってくれという彼の言葉に従い、そっと指輪を二つの指で掴みあげる。
飾り気のない指輪だった。装飾の一切ほどこされていないそれは、微かに暖かい。
「生命力を奪われたものは長くは生きられん。レハトは寵愛者ゆえ常人よりも生命力はあるが……それでも例に漏れず短命になるだろう」
悔いるように、タナッセは一度言葉を切って唇を噛み締めた。
「それを身につけていれば、すこしは長く生きられるはずだ。本来の寿命よりは短いものではあるが」
どうやって指輪に生命力を込めたのだろう。まさか、まだあの魔術師と繋がっているのだろうか。
そんな危惧が顔に出ていたのか、タナッセは首を振った。
「いや、これは私がとある魔女に弟子入りして身につけたものだ。あの魔術師とはあれ以来会ってはいない」
「魔女に弟子入りって……あなた、魔術師になったの?」
声を抑えて尋ねると、タナッセは首肯した。
「なんで……魔術師なんて」
見開いた視界に映るタナッセは哀しく笑った。
魔術師はこの世で最も忌むべき存在。見つかれば即座に捕えられ処刑される。タナッセがそれを知らないはずはないのに。
「……あなたは、それでいいの?」
自分を拒絶した人間のために、人生を捨てるなんて。
「私にはそれしかできなかった。逆をいえば、魔に染まってもレハトのためにできることがあって、よかった」
浮かべる笑顔に偽りはなかった。
レハトは何も返すことができず、ただ手中の指輪に目を落とした。
「さて、私はそろそろ行こう。あまり長居して知った顔に見つかれば面倒だからな」
そう言ってタナッセは立ち上がる。
「レハトには会えなかったが、貴女と話せてよかった。……まだ、名前を聞いていなかったな。聞いてもいいか?」
「私は……」
レハトだと、名乗ったらどういう顔をするだろうか。
名乗りたかった。自分こそがレハトなのだと。そうして彼に直接謝りたかった。
けれど、タナッセはレハトではないからこそ、本心を告げたのではないだろうか。レハトには言えないことでも赤の他人だから言えたのではないか。
「私は……名乗るほどのものではございません。ただのレハトの親類ですから」
「……そうか」
薄く笑うと、タナッセはレハトの頬にそっと手を当てた。
「もう会うことはないだろうが……どうか、息災で」
まっすぐに注がれる視線にレハトが口を開こうとしたが、タナッセはその前にレハトから離れた。
そして窓辺へと近づき、ひらりとそこから飛び降りた。
「タナッセ!?」
慌ててベランダに出る。下を覗いたが、タナッセの姿はない。
辺りを見渡したが、真っ暗な森が広がっているだけだ。
魔術を使ったのだろうか。それとも、夢を見ていただけなのだろうか。
だが、それが現実のものだと証明するように、レハトの手の中には彼が預けた指輪があった。
タナッセがすべてを捨ててレハトのために作った指輪。そっとそれを指にはめる。
「! え……なん、で……」
その指輪は女のレハトの指にぴったりだった。
「うそっ……なんで、こんな…………っ」
胸にせりあがるものが、視界を歪ませた。ぽたぽたと落ちる涙がベランダを濡らしていく。
月を見上げ、レハトは泣いた。もう決して戻らぬ時を希って。
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