WEBアンソロジー『仮面舞踏会』に提出した、ヴァイル憎悪Bエンド後のレハヴァです。
流血、死ネタ、残酷描写などを含みますので、苦手な方はご注意ください。
[4回]
重厚な扉を開けると、鉄格子の嵌められた窓を眺めていた青年が、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……おかえり、今日は早かったね」
射しいる月光のせいか、ただでさえ白い彼の笑顔が更に儚げなものに思えた。
「ちゃんと、食べてるの?」
「ん? うん、食べてるよ。……ふふ、嬉しいな。僕のこと、心配してくれてるんだ?」
声を弾ませて腕を広げる彼の手を払い、ヴァイルは鼻で笑う。馬鹿らしい。こちらはお前と馴れ合うつもりはないのだと意志を込めて。
だが、それでも彼の笑顔は崩れず、楽しそうにくるくるとヴァイルの周りを回る。
「ね。今日はどうだった? 何か面白いものあった? 楽しかった?」
ベッドに腰をかけ、その隣をぽんぽんと叩く。
くだらない。もうとうに成人したと言うのに、子どもっぽい彼の言動に内心呆れる。だが、話に付き合ってやらなければ、先に進めない。無理やりすることも可能ではあるが、それはそれで疲れる。
相手にも聞こえるように大げさにため息をついて、青年の隣に座る。にこにこと笑みを浮かべた彼から目を逸らし、ぽつりぽつりと今日あった出来事を話し始めた。
リタント王国の中心、リタント王城には奥まった場所に二本の塔がある。万一敵に攻め込まれた時に籠城する目的で作られた塔は内も外も特に頑丈に作られており、ちょっとやそっとでは壊れはせず、また窓から襲撃をするためのこの部屋は王城で最も高い位置にある。
外から救い出すことも、内から逃げ出すことも適わぬ籠城。牢に入れるには躊躇われる罪人を閉じ込めるのに丁度いい作りになっているのだ。
そんな牢屋に閉じ込められているこの青年は、六代リタント国王の候補者の一人であった。もう一人の候補者との戦いに敗れて継承権こそ失ったが、その額にある徴は今も彼の額に輝き続けている。
選定印は一代につき一人のみ。二人目など、あってはならない。
彼は存在自体が罪なのだ。城の人間の中には監禁に眉を潜める者もいるが、これでも温情をかけているほうだ。本来であれば、命を奪っていてもおかしくないのだから。
「いいなー、僕も焼き菓子食べたいなー。今度、おやつに追加してくれない?」
「……あんた、自分の立場わかってるの? そんなぜいたく品、あげるわけないでしょ」
「えー。ケチー」
口を尖らせるレハトは己の状況を理解していないかのように、あっけらかんとしていた。継承の儀を終えてから三年、一度も外に出れていないと言うのに。
彼が何を考えているのか、ヴァイルにはわからなかった。
どれだけ自分が憎悪をぶつけても、彼は笑みを返した。こりもせず、愛の言葉をささやき続ける。
「もう、俺の話はいいだろ。さっさとやって、さっさと寝るよ」
衣服を脱ぎ、ベッドにもぐりこむ。
ヴァイルはせっかちだなーと呑気にぼやきながら、逆らう意志は見せず、レハトも同じようにベッドに入ってきた。
***
「ヴァイルー!」
背後から自分を呼ぶ明るい声。
それに感化されるように自身の胸が弾むのを感じながら、ヴァイルは振り向いた。
「ちょうどよかった」
追いついたレハトは持っていた包みを掲げた。
「これ、市で買ってきたんだ、一緒に食べよ!」
「おっ、いいね。じゃあ、いつものとこいこっか。あ。お茶とかいる? 誰か連れてこようか?」
「んー。いいや。そんなに喉乾いてないし、二人っきりでのんびりしたいから」
自然とヴァイルの手を取り、レハトは歩き出す。
レハトは親しい友達とのスキンシップとしか思っていないだろう。
だが、ヴァイルにはレハトのそんな言動に一喜一憂してしまう。何か特別な意味が込められていないかと期待してしまう。
恋愛で心拍が高まるなど、物語の中でだけだと思っていた。人を好きになると、こんなにも世界が変わるものなのか。
ありえない二人目の継承者。諦めを知った自分が抱く希望。レハトは鮮やかにヴァイルの世界を変えてくれた。
王になれてもなれなくても、こうしてずっとレハトと一緒に過ごしていたい。
けれど、それは無理だと分かっている。
レハトが王になれば、対立する自分の存在を傍に置くのを躊躇するかもしれない。これは国王という立場上、仕方がないことだ。
リタントの正史上、成人した寵愛者二人が長期間城にいたことはない。せいぜい引き継ぎのために一年ほど城に留まる程度。それ以上長く居座られれば、必ず諍いが起こる。前王が野心を抱かなくとも、周りの貴族どもがちょっかいをだしてくるに違いない。
逆に、自分が王になれば。レハトはきっとここから去っていくだろう。彼は元々自由だったのだ。一時的にここに留まっているだけで、枷がなくなればすぐに離れていくだろう。
ここにいるべきなのは、レハトではなく、自分なのだから。
だから、この想いを告げることはない。
だが、その日が来るまではせめてこうして一緒にいたい。
それだけが、ヴァイルの望みだった。
レハトが城に来て三月が経つ赤の月。毎回市を楽しみにしていたレハトが、ぱたりと市に行かなくなった。
理由を聞いてみても、興味がなくなったなどと濁した言葉が返ってくるだけだった。あまり深く突っ込むのは野暮と言うもの。それにレハトが市の日も自分とともに過ごしてくれるのが嬉しくて、考えないようにした。
レハトは以前より訓練に励むようになり、めきめきと頭角を現し始めた。最初はレハトを馬鹿にしていた貴族達も一目置く程、城に馴染んだ。負けてはいられないと、ヴァイルも特訓に身が入るようになった。
「僕、強くなりたいんだ」
剣の打ち合いを終えて中庭のいつもの場所で休んでいると、ぽつりとレハトが呟いた。
「誰も付け込もうなんて思わないくらい、大切な人をこの手で守れるくらいに」
アネキウスが鎮座する空を見上げながら、はっきりとした声で告げた。それはヴァイルへの言葉でも独り言でもなく、祈りに近いものに思えた。
「強く……か」
その気持ちはヴァイルにも分かる気がした。
七年前、自分の愚かさから従兄弟を巻き込んで誘拐された。今よりも更に幼い体では敵を倒すことも適わず、非力さに打ちのめされたことはヴァイルの中で鮮明に記憶されている。
レハトももしかしたら同じような目にあったのだろうか。
ふいにそんな疑念が頭をもたげたが、そんな目にあっていたらみんなが騒いでいるだろうし、レハトもきっとふさぎ込んでしまうだろう。
「だから、ヴァイル。もし、僕がそれくらい強くなったら――」
いいかけて、レハトは口ごもった。
ほんのりと赤みを帯びている頬に、自惚れと思いつつも期待を抱かずにはいられない。
「レハト……」
その手に触れると、飛び上って振り払われた。
「あっ、ごめ……ごめん! ちょっとびっくりして! 考えごとしてたから!」
レハトはぱにくったまま、先に戻ると止める間もなくかけて行った。
「……ほんと、に?」
口元が緩む。きっと今自分は酷い顔をしているだろう。
けれどそんなのどうでもよかった。
レハトが自分と同じ想いでいてくれる。それがどうしようもなく嬉しくて、涙が出そうだった。
「もしかしたら……」
胸をかすめる期待。
人間の欲とは際限がないもので、一つ満たされればもっと欲しくなってしまう。
ダメだと諌める声とレハトならば大丈夫だと背中を押す声。自身の二つの声に挟まれ、ヴァイルはしばし逡巡する。
「……大丈夫、レハトはみんなと違う」
そうだ、レハトは離れて行った人間たちとは違う。自分と同じ印を額に戴き、ゼロの状態から自分と渡り合えるところまで上り詰めた。
諦観していた自分に信じることを教えてくれたのだ。
「明日、誘ってみよう」
見上げたアネキウスは先と変わらず輝き続けていた。
けれど、ヴァイルの希望はレハトの拒絶により砕かれることになった。
自分が勝手に期待しただけ。それだけのことだ。
何度も自分に言い聞かせ、ヴァイルは再び諦めることを覚えた。
断った手前、今までと同じように接しにくいのか、レハトが自分と距離を取り始めたのもつらかったが、これも当然の結果だ。
ずっとここに居続けるなど、そんな苦痛容易に受けられるものではないのだから。
レハトと一緒に居る時間が長かったからか、一人が余計に寂しく感じられた。
成人後も共にいられることは叶わなくても、せめて今だけは傍にいてほしいと思わずにはいられなかった。
だから、レハトから呼び出された時の嬉しさは言葉にできないほどだった。
「……久しぶり、ヴァイル」
ぎこちない笑顔。合わない視線。それでもこうして顔を合わせられるのは嬉しかった。
「どうしたの、レハト。何か、いたずらでも思いついた?」
あっけらかんと言って見せると、レハトの目に涙がうっすらと浮かんだ。震える拳を握りしめ、レハトはこちらを見つめる。
「……ほんとに、どうし――」
「っ、僕、どうしても、ヴァイルに伝えたいことがあるんだ。自己満足だし、この間約束できなかったのに何を都合がいいんだなんて思われるかもしれない。でも、どうしても僕の気持ちだけは知っていて欲しくて」
嫌な予感がする。それを聞いてしまったら、きっと自分とレハトは元に戻れない。
レハトの口を塞ごうとしたが、その前にレハトは言ってしまった。
「僕、――ヴァイルのことが好きなんだっ!」
血の気が引いていく。失望。愕然。悄然。それが過ぎ去ると、今度は抑えようのない怒りが溢れた。
「なんで……そんなこと言うの?」
「え……」
ヴァイルの堅い声色にレハトはたじろいだ。ヴァイルの豹変が理解できないその姿が、更に怒りを仰いだ。
「ああ、わかった」
嘲笑が零れた。
「俺、お前が……大嫌いだっ!!」
あの日から公然の場を除いて、レハトと顔を合わせることはなくなった。廊下や訓練場で見かければすぐにその場を離れるし、レハトが来ると知れば、御前試合も仮病で休んだ。
ヴァイルの突然の心変わりにレハトも周りの人間も驚き戸惑ったが、知った事ではない。
最初の内はせめて謝ろうとレハトが話しかけてくることがあったが、すべて突き放した。やがて、レハトも諦めたのか、こちらの姿を見かけても目を逸らすようになった。
成人すれば、レハトはここからいなくなる。早くいなくなって二度と現れないでほしいと、あの頃とは正反対の願いを抱いていた。
リリアノはレハトを王に選んだが、決闘により、ヴァイルは王座を掴んだ。
継承権を放棄したレハトが王になることはない。このままレハトは城から離れるだろう。レハトは剣の腕が優れていたので、リリアノがどこかの貴族の元へ行けるように手配をしていた。
だが、ヴァイルはそれを許さず、レハトを塔の一室に閉じ込めた。
あの決闘の時に、ヴァイルは知ってしまったのだ。己の力でレハトの未来を捻じ曲げることができるということに。
これは、自分を置いてここから逃げようとしたレハトへの復讐。そして、ここから離れられぬ鬱憤を晴らす気晴らし。
そのために、周りの忠言を全てはねつけ、レハトをここに閉じ込めたのだ。
おかしなことに、レハトは一度も外へ出ようとはしなかった。むしろ監禁生活を楽しんでいる節もある。篭りの前まではあれほどヴァイルと関わるのに怯えていたのに、監禁してからは馴れ馴れしい態度を見せるようになったのも不可解だ。
腹が立ったが、本人の前では冷静でいた。
この男の考えていることなどわからない。拒んだくせに告白したり、あれほど女になりたがったのに男を選んだりと、理解できないことばかりをするのだ。考えるだけ無駄だ。
***
「……大丈夫? 水、持ってくるように頼もうか?」
情事の熱が冷めやらぬ体を動かす気力もなくぼんやりしていると、レハトが声をかけてきた。
喉は確かに乾いているが、この程度は我慢できる。声を出す気力がなかったため、静かに首を横に振った。
「そっか。僕もあんまり飲みたい気分じゃないし、後でもらおうか」
そう呟いて、ヴァイルの額にかかる髪を払い、近くにあった布で汗ばむ顔を拭う。
その感触が心地よくて、自然と目を閉じていた。
「……ヴァイルは、さ」
いつもよりも低い、真剣な声音。
珍しい彼の様子に驚いたが、動揺を悟られたくはなくて、平静を装った。
彼はその先を続けるか逡巡していたようだが、意を決したのか、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「どうして、こうして毎日僕のところに来てくれるの?」
「……用事があるだけ。それが終わったら、もう来ないから安心しなよ」
咎めるような響きのあるその言葉に、ショックがないと言えば嘘になる。けれど、そんなのはただ情事の余韻に浸っている時だけの、一時的な感傷に過ぎない。
「……じゃあ、なんでいつもこんなことをするの? あれだけ嫌がっていた子供を作ろうとするのはどうして?」
次代の継承者が他から出れば、面倒くさいごたごたが起きる。身分によっては子は親から引き離され、孤独な子供時代を送るだろう。
「貴族社会って、あんたが思っている以上にめんどくさいんだよ。俺が印持ちを産めば、そんな事態は避けられる。他のやつより、選定印もっているあんたの方が印持ちができる可能性は高いからね」
「……それだけ?」
含みのある言葉に内心苛立つ。
「――ああ、もう一つあるよ。閉じ込められて何の役にも立たない元寵愛者様に、せめてここに居る権利を与えてあげてるんだよ。だって、あんた一日中ぼーっとしてるだけの穀潰しだからね」
「――――ヴァイル」
つうと頬を撫でられる。低く艶めいた声が耳に吹き込まれる。
思わず開いた視界の中に、こちらをひたと見据えるレハトの瞳があった。
「ほんとうに、それだけ?」
言葉が出なかった。何か言わなければと思ったけれど、強気な自分を保たなければいけないと思ったけれど、できなかった。
――どうして、嫌いな男に毎日会いに行くのか。
――どうして、憎いはずの男の子どもを身ごもろうとするのか。
答えは、一つしかなかった。
「……ヴァイル」
確認するように、彼が唇に触れる。
ばくばくとうるさいほど心音が鳴るのは、いつ以来だろう。
こちらをまっすぐに見つめる彼の瞳を受け止めきれず、目を伏せる。
微かに笑った気配がしたかと思うと、唇が重なった。
「陛下、何かありましたか?」
朝の検診中に、カルテに何か書き込みながらテエロがそう尋ねた。
「え……何かって、何? 特に何もないけど?」
自覚している不調はないが、医師であるこの男に眉を潜められると、一種の不安がよぎる。
「……いえ。最近陛下のお顔色がよろしくなられたような気がして」
「そう? ……まあ、前にあった時は仕事が詰まってたしね。あの頃よりは大分マシになったから、そう思うんじゃないの?」
仕事量は実際には変わっていない。変化と言えば、レハトと和解したことくらいだろう。
自分ではポーカーフェイスを気取れてるつもりだったが、そんなに顔に出やすいのだろうか。ユリリエにも先日の舞踏会で同じようなことを言われた。
レハトにも、ヴァイルは分かりやすいと指摘されたことがあるから、きっとそうなのだろう。
王としては好ましいことではないが、レハトはそんなところも好きだといってくれているので、あまり嫌な気はしない。
「――婆を……」
「え?」
考えごとに気を取られていた。
聞き返すとテエロはばつが悪そうに眼をそらした。
「……気が抜けた時が一番体調を崩しやすいです。お気をつけて」
医師は要は終わったと立ち上がり、速やかに部屋を出て行った。
「体調を崩しやすい……か」
確かに気を付けなければいけない。自分が体調を崩せば、政に支障が出るし、レハトも心配するだろう。
「今日は早めに切り上げよう」
ぱん、と頬を叩いて気合を入れると、俺は公務に没頭した。
こつこつと薄暗い階段に自分の足跡だけが響く。
塔の最上階へ続く、長い階段。いつもの通いなれた道だが、今日は足取りが重い。
レハトに会いに行くのは楽しみだけど、今朝からめまいやだるさを感じているため、どうしても動きが鈍くなってしまう。公務中は気を張って普段通り振舞っていたが、それも悪かったのか悪化したように思う。
先日のテエロの忠告通り、体調には気を付けていたつもりだったのだが、見事に体調を崩してしまった。
「……今日は早めに寝よう」
気合を入れて、残りの階段を登り切った。
扉を開けると、見慣れた彼の背中が見える。
「あ。ヴァイル」
どことなく、元気のない声。レハトも風邪を引いているのだろうか。
「……大丈夫? 具合、悪そうだけど」
「平気。ちょっとだるいだけだよ」
窓辺の椅子に腰を掛けているレハトに近づく。
青色の月のせいか、顔色が悪く見える。
「………………」
レハトはじっとこちらを見つめて動かない。その顔には笑みはなく、不思議そうな表情が張り付いている。
「レハト?」
名前を呼ぶと、微かに肩が跳ねた。
「どうしたの、ぼーっとして。そんなにきついなら、早く寝た方がいいんじゃない?」
「ヴァイルも、体調悪いの?」
レハトは相変わらず鋭い。それとも、自分がわかりやすいのだろうか。侍従頭も衛士達も何も言わなかったので、平然とするのはそれほど下手ではないと思うのだけれど。
「ちょっとだけ。多分、寝れば治るよ。だから、ほら」
ベッドへ促そうと差し伸べた腕を掴まれる。ドキッと心臓が跳ねた。
「レハト……?」
腕を引かれ、額がひっつく。
触れた肌からじんわりとレハトの体温が伝わってきた。
「……同じ、感じがする」
「同じって何が?」
「上手く言えないんだけど……僕とヴァイルの感覚の乱れ方が、似てる」
レハトの言動が理解できないのは今に始まった事ではないが、その中でもこれは上位にはいるレベルだろう。
「僕、昼間は時間あるから瞑想とかしてるんだけど、なんかそうしてると自分の身体の中でなんか渦巻いているものがあるのがわかるんだ」
怪訝そうな顔になっていたのか、こちらを見て、レハトは取り繕うように笑った。
「ごめん、よくわからないよね。なんというか、気配に敏感なものみたいな感じなんだ。ほら、たまに相手の感情の変化に気づきやすい人とかいるでしょう? あんな感じ。……それより、明日、きちんと診てもらった方がいいよ。ヴァイルに何かあったら、僕嫌だから」
「うん……。そうする。あんたも、明日診てもらいなよ。昼に医師をよこすから」
「わかった。ありがとう、ヴァイル」
その日はそのまま寄り添って眠った。
体調が思わしくないから診察して欲しい、と言うとテエロは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。
ほんの一瞬のことで、次に瞬きをした時には無表情に戻っていたけれど。
この医師がこんなふうに感情を出すのは珍しい。ついしげしげと眺めてしまい、医師が咳払いをした。
「……専門のものを呼んでおりますので、そちらの診察を受けてください」
「え、医者先生じゃないの?」
「私は専門外ですので」
彼が連れてきたのは、年老いた女医だった。
「私はこれで失礼します」
「ああ、悪いがレハトのところに診察に行ってくれないか? 彼も体調を崩しているようでな」
「…………かしこまりました」
テエロは一礼をして出て行き、ヴァイルはその女医の診察を受けた。小さい頃からテエロが主治医だったため、こうして別の人間の診察を受けるのはなんだか新鮮だ。
「これは、間違いないでしょうね」
桶に満ちた水で手を洗いながら、女医は微笑んだ。
「おめでとうございます、ご懐妊ですよ」
「子どもができたの……か」
驚きのあまり、普段の口調に戻りそうになったのを誤魔化す。
――子ども。自分とレハトの。
おなかにそっと手を当てる。今はまだわからないが、ここに新しい命が芽生えている。
行為をしていたのでできて当たり前なのだが、実際にできたと聞いても実感がわかない。
ぼんやりしていると、カルテを持ったテエロが帰ってきた。
「……ヴァイル様のご容体は?」
「貴方の思われた通り、ご懐妊されていますよ。相手の男の方も、産みの繋がりが出ていたのでしょう?」
頷いたテエロはヴァイルの方に向き直り、これからは一層体調に気を付けるよう忠言した。
「これからお産みになられるまで、私が診察をいたしますので、よろしくお願いいたします」
そう頭を下げた女医は、今まで多くの貴族の子をとりあげた産婆だと名乗った。
レハトは妊娠したことをどう思うだろうか。喜んでくれるのだろうか、それとも嫌がるだろうか。
そんな恐れが頭に過り、扉をなかなか開けることができなかった。
先ほどからノブに手を伸ばしては引っ込め、また伸ばすということを繰り返していた。
「……ヴァイル?」
扉の向こうから、くぐもった声が聞こえた。
慌てて鍵を外して扉を開ける。
「どうしたの、あんなところでぼーっとして」
レハトはいつもと変わらない。きっとテエロからは妊娠のことは聞かされていないのだろう。
怖くて、彼から目を逸らした。
「……こども、できたんだ」
息を呑む気配。自分の身体が強張ったのがわかった。
「ほんとに? ほんとに……できたの?」
声は震えていて、それが喜びからくるのか嫌悪からくるのかわからない。
嫌なのかもしれない。沈黙がそれを証明しているような気がして、今すぐこの場から離れたかった。
「――ヴァイル」
すぐ近くから聞こえた声。気が付けば、レハトの腕の中にいた。
「ありがとう……僕、ようやく家族ができるんだね…………」
首筋に、暖かいものが落ちる。自分を包む彼の身体は小さく振えていた。
「レハト……嬉しい?」
「嬉しいに、決まってる。だって、僕ずっと家族が欲しかったから。この間ヴァイルも体調悪いって聞いて、もしかしたらってずっと期待していたんだ。気のせいじゃありませんようにって、何度も神様にも祈った。ヴァイルと家族が作れるなんて、夢みたいだ……」
レハトの背に腕を回す。彼に感化されたのか、自分の身体も震えていた。
「…………ふ。あんた、すっごい心臓ドキドキいってる」
彼の胸に顔を寄せると、心音が早鐘のように鳴っていた。
「……緊張してたんだ」
「あんたが?」
「僕だって、緊張くらいするよ」
心が乱れることがないのかと思うくらい、レハトにはいつも余裕があった。こちらが何をしても笑顔で対応して、それが憎らしいと感じたことがあるくらいだった。
「……今までも、こうしてドキドキすることあった?」
「たくさん。特に、ヴァイルのことでは」
レハトは照れくさそうに笑った。
「それより、体が冷えちゃいけないから、早くベッドに入ろう。あ、動かないでいいよ、僕が運ぶから」
こちらが何か言う前に、ひょいと抱えられた。普段ずっとここに閉じ込められているというのに、こうして軽々抱えられると、やはり男性なのだと気付かされる。
「暖かくしてね。あ、何か飲みたいものとかある?」
「いい。……あんたが側にいてくれたら、何もいらない」
「……そっか」
笑顔でレハトは隣に寝転ぶ。
その胸に、そっと耳をあてる。先ほどよりも緩やかではあるが、心音は駆け足だった。
「あんた、ポーカーフェイスだったんだね」
「……僕の心が丸裸みたいで、なんだか恥ずかしいな」
「嫌だったら、止める」
「いいよ。僕の心はヴァイルのものだから。聞きたいなら、いくらでも聞いて」
「……そんなこと言って、恥ずかしくないの?」
「本心だから。ヴァイルのためなら、なんだってできるよ」
決意を現すように、ぎゅっと抱きしめられた。
産婆の診察によるともう安定期に入っているとのことだった。
これからつわりが酷くなり、公務にも支障がでるので、早めに公表するべきなのだが、その前にしなければいけないことがあった。
妊娠が明るみになれば、当然相手の存在を問われる。夫だと明かすことができるように、今の内にレハトを塔からだして王配にしなければいけない。
今のレハトならば、決してここから逃げることはないだろう。
そう思い、直接自分の口から話そうと、仕事の合間を見て塔へと向かった。
いつもは日が落ちた後に通っていたので、こうして明るい時に行くと知らない場所みたいな不思議な錯覚になる。
階段を登り、扉の前につく。周りの風景と同じく、昼間のレハトも殆どみたことがなかった。継承の儀で見かけたことはあるが、遠めだったし、あれから何年も経っているため、きっと違った雰囲気になっているのだろう。
わくわくしながら、扉を開ける。
いつものレハトの背中があった。だが、それは怯えたようにびくりと震えた。
「あ……ヴァイル」
顔色が悪かった。
ヴァイルのつわりの症状は悪くない。とすると、レハト自身の体調の問題なのだろうか。
「あんた、具合悪いの?」
「――来ないで!!」
初めて聞く、咆哮。その瞳には拒絶の色がありありと浮かんでいた。
「レハト……」
全身から血の気が引いていくのを感じる。彼の豹変が信じられなかった。
「諦めたと……思ってたんだ」
酷く蒼白したレハトの顔が、泣きそうに歪んだ。
「僕は男を選んだから。ここに閉じ込められたから。やっと、ヴァイルと一緒になれると思ったのに……許されていなかったんだ」
その目はヴァイルに向けられてはいなかった。自分の足元に視線を落とし、彼は力なく呟いた。
「…………ごめん、ヴァイル。だけど……もう、ここには……来ないでくれないかな」
「ど、どういうこと?」
「僕の言動が気に入らないっていうなら、処刑しても構わないから。だから、もう僕の前に現れないで」
言うなり、背中を向けた。
これ以上話すつもりはないとの意思表示。
「それが……あんたの、ほんとうの気持ち?」
昨日あんなに喜んでくれたのは、嘘だったのか。今まで優しく笑っていたのは、偽りだったのか。
ヴァイルをああして丸め込んで自分に心を許したところで手酷く裏切る。それが、彼の狙いだったのか。
「…………わかった」
ふらふらと部屋から出て、階段を下った。侍従たちの控え室についたところで鍵を閉め忘れていたことに気が付いたが、もうどうでもよかった。
公務は全て休み、自室にこもった。
――裏切られた。
怒りは不思議とわかず、ただ絶望と哀しみだけが胸にあった。
「結局また、俺の独りよがり……」
湖で断られた時点で、二度と期待などしてはいけなかったのに。
どうして惨めにも縋り付いてしまったのだろう。
今でもレハトの事を嫌いになりきれないのは何故なのだろう。
昨日のレハトが頭を過る。
彼の瞳は嘘をついているようには見えなかった。あの心音だって、間違いなく真実を告げていた。
「…………レハト」
何度裏切られれば気が済むのかと心の中で嘲笑が聞こえた。
何度期待しても報われることはないと憐みを帯びた声が聞こえた。
それでも、この想いを断ち切ることは不可能だった。
せめて、一度きちんと話をしたい。
レハトが何故心変わりをしたのか、その理由を知りたい。
もう外は暗闇に包まれていたが、ヴァイルは護衛を伴い、再びとうに赴いた。
コツコツと登りなれた道を行く。護衛はいつものように階段の前で待機させているので、一人きりだ。
何と言えばいいのか、レハトがどんな反応をするのか、恐怖で足が震えていた。そのため、休み休み登る。
あと数段で扉にたどり着くというところで、それは聞こえた。
「――どうして、今更現れてくるんだっ! 僕は男になったんだよ!!」
激昂の主は、レハトに間違いない。
今の時間侍従はあの部屋にいないし、外部から誰かが入っているとも考えられない。
彼は独り言を言っているのか。長期間閉じ込められて、精神を病んでしまったのだろうか。
「……わかってる。これは僕の報いだ。君を捨て、違う人に心を移した、僕の。君が僕のためにすべてを捨てたように、僕も君のために大切なものを捨てた。これで、許してくれないか」
すぐに扉を開けようと考えたが、独り言というよりも誰かに話しかけているように思え、躊躇った。
可能性は低いが、他に誰かいるのではないかと扉に耳をあてる。
「じゃ……を愛し…………」
「それは……できない。僕の心はもうヴァイルのものだ。何を言われてもされても変わらない。僕が愛しているのはヴァイルだけだ」
ところどころ聞き取れないが、レハトよりも低い男の声が聞こえる。
侍従の誰かが手引きをして侵入させたのだろうか。
「……頼む。ヴァイルには手を出さないで。彼女は関係ない。僕が勝手に好きになって、子を作ったんだ。もう、二度と会わないから」
「初……から…………つも……ない……」
「そう。よかった……」
侵入者がいる以上、衛士を呼ぶか扉を開けるべきなのに、金縛りにあったかのように体が動かなかった。
「………………」
「! ……嫌だ、といってもするんだろう?」
直後、レハトの悲鳴が響いた。
同時にヴァイルの身体の呪縛も解かれ、弾かれたように扉を開けた。
一番最初に目に入ったのは、星々の輝く夜空。あったはずの鉄格子はどこにもなかった。
視線を動かす。床に、倒れている男の姿が見えた。
「! レハト……!」
駆け寄って抱き起した時に、気が付いた。彼の胸にぽっかり穴があき、そこから夥しい量の血がでていることに。
「レハト……」
呼吸はなかった。体温はかろうじてあるが、それも時間と共に消えてしまうだろう。
「嘘……レハト、レハト!!」
ふいに、彼の側で蹲っていた黒い影が立ち上がる。
紺色の服に身を包んだ男だった。年齢はわからない。表情のない琥珀色の瞳が、じっとヴァイルを見据えている。
「お前……」
「貴方様はレハトの心を得られた。さっきの会話、聞いていらしたんでしょう? レハトの心は永遠に貴方様のもの。だから、俺はせめてこれをもらっていきます」
男の手にあるそれから、ぽたぽたと血が滴り落ちる。
実物を見たことがないが、それはおそらく――。
「では、国王陛下。良い御子をお産み下さいませ」
男は含みを持って言うと、ひらりと窓から出て行った。
PR